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最強格闘王女伝説綾香

 

五章・実戦(135)

 

 私は、思わす目をつむってしまった。それがどれだけ愚かなことか、分からなかった訳ではないのだが、決して早くないはずの状況の推移に、ついていけなかったのだ。

「……」

 二秒ほど、そうしていただろうか?

 何も襲って来ないのに疑問を感じて、私はゆっくりと目を開いた。

 バイオリンケースの中には、鎖など影も形もなく。

 そこにあるのは、バイオリン。バイオリンケースの中にあるバイオリン、何の疑問を挟むこともない、当たり前のものがそこにあった。

 私が、それを理解するのに三秒。そして、やっと安心して、どっと疲れに襲われた。

 ……考えてみれば、バイオリンケースにしまっておいたとしても、鎖のジャラジャラという音を完璧に隠せる訳がないのだ。

「恥ずかしいんですよ、本当に」

 私の不審な行動に、浩之先輩も初鹿さんも気付かなかったようで、そのまま初鹿さんはバイオリンを取り出す。

「とりあえず、多少うるさくしても、近所迷惑にはならんだろう、ここなら」

「そうですね」

 初鹿さんはにこりと笑うと、改まったようにコホンと一つせきをする。

「お耳汚しですが……」

 肩にバイオリンを乗せると、二、三度弦を弾いて音を確認すると、おもむろに、演奏しだした。

 静かな、落ち着いた音が、奏でられ始めた。

 正直、バイオリンの腕前など、私には差はわからないが、とりあえず、音など外さないように弾けているように思える。まあ、知っている曲ではないので、それすらもいい加減な判断なのだが、とりあえず、耳に嫌なところはない。

 初鹿さんのバイオリンのしらべを聞きながら、私は多少、自己嫌悪に陥りそうだった。

 疑うにしても、突拍子もなさ過ぎた。会う人間全員がそんな人間な訳がないのに、私の世界だけで物事を判断した結果、いらない疑いをかけてしまった。

 それが、初鹿さんの存在が、今自分にとって邪魔になったという理由から出たと言われて、否定ができないので、余計に気分が沈む。

 一つでも救いがあるとすれば、恥ずかしがっていた割には、初鹿さんは弾き出すと、気持ちよさそうに続けていることぐらいか。

 ふいに、私の耳の横に、人の気配が近づく。

 一瞬、それに反応しようとして、それが浩之先輩だと気付いて、私は慌てて身体を止めた。

 それで、余計に私は混乱しそうになった。

 初鹿さんの演奏を邪魔しないようにだろう、私の耳元に口を寄せて、小声で話しかけてくる。

「……なあ、けっこううまい、よな?」

「そ……そうですね、詳しくはわかりませんが」

 浩之先輩の、息の暖かさが分かるほど近く。

 正直、近すぎる。

 浩之先輩の存在を、身体が気付いて、鼓動を早くしている。こんな暗い中でなければ、耳まで真っ赤になっているのを、浩之先輩にも気付かれたかもしれない。

 私の中でわだかまっていた罪悪感が、あっさりとそれ以上の刺激を受けて吹き飛ばされる。それで余計に感じる罪悪感よりも、今は耳の横の浩之先輩の存在の方が強かった。

 まったく動じた風もないように見せかけながら、私は初鹿さんの動きを観察する。

 こちらで話をしているのには、気付いていないようだった。それぐらいに、演奏に集中しているようだ。

 考えてみれば、これはチャンスだった。他人に邪魔されないように、浩之先輩と話のできる、振って沸いたような時間。

 それなりに初鹿さんの演奏はうまいのだろうけれど、そう考えた私の耳には、まったく入って来なくなった。

 ただ、獲物をじっと見る猫のように、初鹿さんがこちらに気付かないか観察しながら、今度は、私から浩之先輩の近くに耳を寄せる。

「あの……」

「ん?」

 浩之先輩から近づかれたときでもかなり恥ずかしかったが、こちらから顔を浩之先輩に近づけるというのは、もっと恥ずかしいことだというのを、話しかけるまで、私は気付かなかった。

 一度話してしまえば、もう恥ずかしがっているのを悟られるのも困るので、話を続けるしかない。

 それでも、数秒、私は躊躇した。

 たわいない、あまり重要でないはずの約束を取り付けるだけでいいのだ。浩之先輩のことだから、そんなに深く考えずにOKしてくれると思う。いや、悪い意味で言っているのではないのだ。それぐらいはもてていることぐらいは、予想に難くない。

「私の試合が近いんですが……」

「ああ、見させてもらうさ」

 それだけでも、胸の奥がじんと暖かくなる言葉だ。感動しているのを悟られまいと、私は一瞬唇を耳から離して、つばを飲み込む。

「それで……あの」

 あまり、躊躇しては駄目なのはわかっていた。深読みされると、私としても辛いのだ。それを指摘されれば、私は恥ずかしさのあまり、ここから逃げ出してしまうだろうから。

「私が勝ったら……息抜きに」

 ここで、もう一度つばを飲み込まなければならなかった。運動の後で、一度潤したはずの喉も、もうからからになっていた。

「一緒に遊びにいきませんか?」

「ん……そうだな」

 浩之先輩が考えたのは、たかが数秒、おそらく三秒も考えなかっただろう。断られる可能性も、深く考えなければそうないはずだが、しかし、不安は消せるものではなかった。

「いいんじゃないか? 多少は息抜きも必要だよな」

 予測通りというか、期待通りに、どうということもなく浩之先輩はそれを約束してくれた。深く考えて応えてくれれば一番いいのだが、そこまで求めるほど、私は怖いもの知らずではない。

 私は、ほっとして口を離した。

 作戦は、奇跡的に成功していた。大したことではないのだが、今の私にとっては、本当に奇跡的な成功と言えるのだ。

 が、私は、その作戦に意識を取られて、初鹿さんの方を監視するのを、すっかり忘れていた。

「もう、お二人で内緒話ですか?」

 初鹿さんが、むくれたようにしてこちらを見ていた。演奏は、いつの間にか終わっていたのだ。

「え……」

 まずい、と思ったのも、つかの間だった。

「いや、今度の試合でランがいい結果を出したら、遊びに行こうって話しててさ」

 さらりと自白する浩之先輩。当たり前である、浩之先輩は深くは考えていないのだ。初鹿さんにしゃべってしまうぐらい、予測できる行為だった。

「まあ、ぜひご一緒したいです」

 そして、私が気持ちを隠している以上、初鹿さんが気をきかせてくれるとは思えなかった。というよりも、見たところ、積極的に邪魔をしてきてもおかしくないほど、初鹿さんも浩之先輩のことを憎からず思っているようなのだから、当たり前だ。

「いいんじゃないのか? なあ、ラン?」

「は……」

 ……こんちくしょうめ。

 言葉には出せなかった悪態が、頭の中ではじけて消えた。

 私は、成功したと思った作戦が、半分以上失敗に終わった上に、さらに爆弾までかかえたのを自覚して、何とか表情を隠すのがやっとだった。

「……はい」

 そして、断るような答えを、持っていなかった。

 

続く

 

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