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最強格闘王女伝説綾香

 

五章・実戦(136)

 

 ランの試合は、明日に迫っていた。

 しかし、ランは練習を続けている。身体を整える休憩は、明日だけで問題ないと坂下が判断したためだ。

 正確には、それは正しくない。若いので、回復は早かろうが、すでに厳しい練習は終える方がいいのではと、坂下は考えてはいるのだ。

 だが、それよりも今は練習させた方がいい、とランを見て思ったのだ。

 坂下は、ランの戦う相手、タイタンの実力を知らないが、それでも、ランの実力がそこにたどり着いているとは思っていない。

 ここ少しの間に、ランに自覚があるのかどうかは分からないが、ランが急激に成長しているのはまぎれもない事実で、その伸びは、多分マスカのどの選手を取っても負けることはないと思うが、しかし、タイタンに届くかどうかは難しいところなのだ。

 はっきり言えば、まだまだランの強さには不安がある。若さにまかせて身体が回復する時間を狭めても、練習する必要があるほど。

 本末転倒になる可能性もあるが、それにかけねばならぬほど、ランはまだまだ弱いのだ。本人に言うつもりはないが、ラン自身もそれを知っているはずだ。

 ……でも、練習を続けようと思ったのは、その理由だけじゃないけどね。

 一心不乱に身体を動かすランに、坂下も自分の練習をしながら、ちらりと目を向ける。

 ランは、完全にこちらの視線に気付かないほど身体を動かすことに集中している。まるで、それは一匹の獣を思わせる。

 調子が良いときほど、感覚は鋭敏になって、そこで田辺が健介を甲斐甲斐しく世話しているのにも気付いていただろうが、今はさらにその先の段階に入っている。

 坂下も、何度かは経験がある。集中がピークに来ると、本当にまわりのものが見えなくなるのだ。見えるのは、たった一人、相手だけ。

 その集中した短い時間の間に、坂下は何度も自分の限界を突破した。いや、終わってから、突破したことを理解すると言った方がいいか。

 それがたまたまであっても、一度限界を突破したことを、身体は覚えている。練習次第では、突破した点まで身体を持って行くことは不可能ではなくなる。少なくとも限界を突破するよりはそれは容易に行える。

 ランが、この練習で限界を突破するかどうかはわからない。しかし、経験した最大値が増加する可能性は十二分にあった。

 それほど集中しているときに、声をかけて止める方が野暮だ。

 弟子の成長をただただいいことだと思える坂下は、だからランに声をかけない。

 もっとも、坂下には自信があるから、今ランを野放しにすることを選べたとも言う。

 これで、ランが限界を突破したとしても、私はさらに先に行っている。

 自分が強くなることを疑っていない、疑ったからと言って問題にしない。

 自負、だ。

 戦う者はすべからくこの鎧の力を借りている。背骨(バックボーン)とも言う。

 きついとき、苦しいとき、そして、危機のとき。

 そういうときに、最後にものを言うもの。それが、自負。

 今まで、自分がどれほど練習をしてきたか、今まで、自分がどの点まで到達したことがあるか、未来、自分がどこまで行くか。

 そして今、自分がどこまで行けるか。無理でも無茶でも、先に進めるか。

 表皮だけのプライドではない。実が伴った上で、さらにそれよりも先に行く、スポーツでは絶対に口にされる、精神力というものだ。

 今のランは、坂下には及ばないものの、その精神力の面で見るものがある。今の練習は、確実に身になるはずだ。

 ……しかし、その理由を考えると、坂下は苦い笑いを浮かべてしまう。

 坂下はスタミナをつけるように、という簡単なアドバイスだけで、部活以外ではランを教育していない。

 そもそも、坂下は根性主義に走る傾向があるので、純粋にスタミナをつけたいのなら、そういう部分の詳しそうなゼロなどから話を聞いてやった方がいいかと思ったのだ。

 坂下は、独学でここまで来たが、それが他人にまで通用するとは、さすがに思っていないのだ。

 しかし、今は多少なりとも自分が教育すべきかとも思っている。

 ……それも駄目か。あっちにまかせておいた方が、どう見ても成長するしねえ。

 坂下の目を、ごまかせるとでも思っているのだろうか?

 いや、言われていないだけで、別にランに隠すつもりはないのかもしれない。もしかすると、色々と勘ぐって言わない方がいいと判断したというのも捨てきれない。

 自分が教えている者に、違う者が教えているのに気付かないほど、坂下はもうろくはしていないつもりだ。

 一緒に練習していたり、教えてもらっていたりすれば、その人間の癖がうつってくるのだ。だから、昔よりはランは、坂下の動きに近くなっている。

 そしてもう一つ、坂下はランの変化を捉えていた。

 この、素人のような、とらえどころのない、それでいて理にかなっていて、しかし、底の見えない動き。

 悪い言い方をすれば、不気味なイメージ。癖ではない。そら怖ろしいことに、彼には癖という癖がないのだ。まるで、そこに実在しない幽霊のように。

 ……いや、認めている。それは、自分が今だ勝ったことのない、坂下にとっての一方的な宿敵、来栖川綾香と同じだということを。

 藤田浩之。知れば知るほど、得体の知れないものを感じる、綾香の恋人……だと思うのだが、そこはあまり自信がない。

 ランのそれは、無意識に真似ているだけの、形だけのものだ。しかし、形が成らなければ、技は成らない。そういう意味では、第一段階にランは足をつっこんでいる。

 このランの驚くほどの集中も、浩之が関わっていることに、坂下は言わずとも気付いていた。

 二師を持つことに対する、多少言ってやりたいことはないでもないが、非難はない。

 しかし、ランの変化は、強くなっている分には問題ないが、あまり歓迎されたものでないないとも思う。

 レディースをしていたわりに、いや、だからこそ男に免疫のなかったランにとっては、さすがに藤田はまずかったか。

 格好良くて優しくて強いんだ、惚れるなという方が無理なのかもしれない。

 浩之が外見だけでないことを、坂下も認めていない訳ではない。

 事実、葵は外見に惑わされるほど薄い人間ではない。それは先輩の自分が誰より、もしかすると本人より理解している。

 しかし、さっきも考えたように、藤田は、多分綾香のことが好きで。綾香は隠しているような隠していないようなよくわからなないところがあるが、両思いなのは間違いないだろう。

 恋というものを、否定するつもりはまったくない。

 しかし、それが強さにつながるかと言われると、多少疑問を感じる。いや、全体的に言えば、不利益になるのは間違いない。

 とくに女の場合は、それが顕著だ。強くなって相手を守ってやりたい、などという本能が、女には少ないから、格闘技と異性の方向性を一緒にすることができないのだ。

 甘美なそれを知ってしまうと、辛い練習などしたくなくなる。それどころか、筋肉質で汗くさい自分のことが嫌いにさえなる。

 そうやって空手を止めていった人間を、坂下は何度も見ている。振られて自暴自棄になってやめていった人間も、何人も見ている。反対に、うまく行ったのも、それなりに見てはいるのだが、その割合は低い。

 今まで一番大事だったものが、後から出て来たものであっさりと覆されるようなこと、何も珍しいことではないのだ。ケンカが、自分の中で一番であろうランでもだ。

 藤田浩之、ランにとってそれは、かなり危うい劇薬なのだ。

 この短期間で強くなれたのは藤田浩之だが、それを台無しにできてしまうのも藤田浩之。それを一人でどうこうできるには……

 ……ランは、弱すぎる。

 まあ、自分の考えすぎかもしれない。恋愛事にはいたく疎い自分が言ったところで、仕方ないのかもしれないが。

 ランが、そちらで藤田を相手にうまくいくとは、かわいそうだが、思わないが。

 願わくば、それでランが戦いを止めることがないように。

 坂下は、祈ることしかしなかった。さすがの坂下の姉御も、口を出せば、間違いなく泥沼にはまることが決定しているものに手を出すほど、無謀でも思慮なしでもなかったのだ。

 

続く

 

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