『でも、ランちゃんからかけてきてくれるとは思いませんでした。嬉しいです』
明らかに常識から外れた時間に電話をかけたにも関わらず、初鹿さんはとても嬉しそうだった。私がいぶかしげに思うほど。
「……何か、嬉しいことでもあったんですか?」
そう思った私は、勢いでそのまま聞いていた。
『ランちゃんに電話をしてもらえるのは、嬉しいですよ。もしかしたら嫌われているかとも思っていましたから』
柔らかな口調は、嫌われているなどという言葉をつむぐには似合わない、私は思った。
「……そんなことはないですが」
『私も嫌われているとは思ってはいませんよ』
しばらくして、それが冗談であることに私はやっと気付いた。
しかし、正直笑えない。どちらかと言えば、私は初鹿さんのことは好きではないと思う。浩之先輩との二人きりの練習を邪魔する位置にいるのだから、当然だ。
初鹿さんがチェーンソーなのではないかと疑ったのも、そういう気持ちがあったからこそだというのを、今の私は認めた。
嫌っているはずの人間に、こんな時間に電話をかける非常識さに、私は少しだけ自己嫌悪を感じた。
『それで、何かお話ですか?』
「いえ……実は、眠れなくて」
言ってから、私は電話のこちらで赤面した。
こんな女子供みたいなセリフを自分が言うとは。いや、女子供なのだから不思議ではないのだけど、私にも自分のイメージというものがある。
『私もそういうことはありますよ。なら、しばらくお話しましょう』
初鹿さんは、全てを分かっていると言わんばかりに、その言葉で納得してくれた。人ができているというよりは、変な人だと思う。
『うふふ、実は、後輩に相談事を受ける先輩みたいで、少し気分がいいです』
「……」
やっぱり変な人だと思った。と、同時に、多少疑問にも感じる。
「部活とかしていないんですか?」
初鹿さんのバイオリンの腕は、素人の私に判断できるものではないが、少なくとも普通に演奏できていた。てっきり、ブラスバンド部などに入っていると思っていたのだが。
『管弦楽部に入ってはいますけど、あまり活動の活発な部活ではないので、後輩とのふれあい、というのはほとんどないんですよ。寂しいことです』
残念だという気持ちが、口調からも感じられた。
私としては、良い先輩が近くにいることの心地よさは知っているが、自分が上になったことがないので、後輩を指導する楽しさというのはわからない。
『本当に、ランちゃんや、浩之さんみたいな後輩がいれば楽しかったと思いますね』
「……寺女ですよね?」
『はい、そうですけど?』
お嬢様学校、寺女。正直、私が似合いそうもない学校である。
「私はお嬢様というがらじゃありませんし……浩之先輩にいたっては、男性ですよ?」
『うふふふふ、女装して入学したら、みんなにかわいがられそうですね』
「……」
『……想像しましたね?』
「え!? い、いえ……」
私は慌てて否定したが、正直、考えてしまった。
身長はあるし、その鋭い目つきを考えると、女装など似合いそうにはないが、整った顔立ちを見れば、寺女の制服を着せて、ロングのかつらをつけた姿を思い浮かべると……少し、ほんの少し良さそうだと思ってしまった。
ゼロさんがたまに持ってくる男と男が抱き合っている漫画があるが、あれでも女装というのはそれなりにあったように覚えている。
『駄目ですよ、先輩をそんな風に妄想して楽しんでは』
「だから、そんなこと思っていませんっ!」
『うふふふふ、あまり後輩を虐めるのもかわいそうなので、そういうことにしときますね』
完全にそういう妄想をしたと思われているようだった。いや、少しだけしてしまったのは本当なのだが、認める訳にはいかない。
『でも、そうですね。ランちゃんは女装ではなくて、男の人に興味があると』
「……お願いですから、そっちの話から離れて下さい」
頭を下げてもいいから、止めて欲しかった。他の女子高生がどうかは知らないが、私はそういう話が好きではないのだ。正確に言うと、苦手だ。
電話の向こうで、初鹿さんが柔らかく私のことを笑う。しかし、悪い気はしなかった。最近、こうやって人とどうでもいいような話をすることにも、それなりに慣れてきた。
しかし、そちらの話は、やはり止めて欲しいと思った。
というか、人がナーバスになっているときに、その相手をからかうのはどうかと思う。いや、こんな時間に電話をした私の非常識さを棚に上げて言うのも何だとは思うが。
『虐めるのはこれぐらいにしますか。後輩思いの浩之さんに何か言われそうですしね』
「……っ」
私は、何とか叫ぶのを止めた。何でここで浩之先輩の名前が出るのかと、わめいてもよかったが、それではまるで本当に浩之先輩のことを気にしているように思われると思ったので、何とか我慢したのだ。
私が叫ぶのを我慢したのを知ってか知らずか、また初鹿さんはおかしそうに笑う。しかし、嫌みはない。優しい笑い方だ。
『少しは、気は晴れましたか?』
「え……」
言われて、私は気付いた。さっきまで胸の中でもやもやしていたものが、綺麗さっぱりと消えていることに。
「……わかってやっていたんですか?」
聞かずとも分かる話だ。わかっていなかったら、わざわざ気が晴れたかなどと聞いて来たりはしないだろう。
『どうなんでしょうねえ?』
それははぐらかすというよりも、肯定に近い言葉だった。
『でも、私も本番が近いときは、緊張して眠れなかったときもありましたから、気持ちはわかるつもりですよ。年の功というやつですね』
初鹿さんとは、多分二歳しか離れていないと思うのだけど。
「でも、試合が近いなんて言ったつもりは……」
近いとは、言った。そこから想像すれば、私が眠れない理由など、簡単に推測できるだろうとは思うけれど。
『眠れないんですから、明日ですね? 見にはいかせてもらえないみたいですけど、応援していますよ、がんばって下さいね』
何故、この人はここまで、柔らかいながら、はっきりとそれを確信しているのか。
そして、心から、少なくとも私が感じる範囲は心から応援してくれている初鹿さん。
「……はい、ありがとうございます」
だから、私は、簡単ながらも、それに心からお礼を言った。
最低でも、今日今からゆっくりと眠れそうなのは、初鹿さんのおかげで、それを感謝するぐらいの気持ちは、私にあったから。
続く