「ラン、しっかりやりなよ」
「わかってる」
姉のレイカの言葉に、私は静かに答えた。
私のまわりには、レディースの仲間が囲んでいる。正体を隠す選手もいるが、私の場合、後ろ盾としてのチームがあるので、隠す必要がないのだ。
すでに、私はマスクを被っていた。蘭の刺繍のされたマスクだ。ついこの間、初めてデビュー戦をしたはずなのに、長い間つけていなかったような違和感を感じる。
それほど、短い期間だったが、集中でき、また楽しい時間だったということだ。
とうとう、試合の時間が来てしまった。
身体はそれなりに良い。疲労も全部とは言えないものの取れたし、ゆっくりと準備運動もしておいたので、身体の動きもなめらかだ。
それに、自分で思っている以上に、落ち着けているのが何よりも心強い。
私を囲う仲間から一歩引くようにして、無言でヨシエさんが立っている。それも、私の心を支えてくれている一つだ。
「作戦通りにやりなよ」
ゼロさんがぽんっ、と私の肩を叩き、私は静かに頷いて答えた。
チームの仲間がそれぞれに私に声をかけてくれるのとは対照的に、ヨシエさんは私を見て微笑みこそすれ、声をかけてくれない。
しかし、私には不満はなかった。ヨシエさんの教えは、言葉ではなく、力として私の中にあるのだ。これ以上求める方がよくばりと言うものだ。
もう一人、私の気持ちを支えてくれる人物を捜そうとして、私は観客の中を見渡す。
人、人、人。この一角だけ、密度は満員電車並だ。この中から、浩之先輩を捜すのは、さすがに無理だろう。
試合が始まれば、応援の声で気付くかもしれないが、いかんせんこの人だかりだ。浩之先輩がいかに大声を出してくれても、届くかどうか。
少し、いや、かなり心残りだが、仕方ない。
相手のタイタンの順位は二十四位。マスカの三十位以内の試合は、チケットが必要なのだ。それほど、人気が高いということだ。人一人捜すのに都合が悪いほどの人は集まる。
これだけの人が、私の試合を見に来ているのだ。
ぶるりっ、と武者震いが来る。決して、気押された訳でも、怖じ気づいた訳でもない、と言い切れないほどの熱気だ。
チームの皆が自分を囲んでいるのでこんなところにいられるが、それがなければ、観客の中になど立っていられないだろう。
それは、まわりから向けられる好奇の目で十分分かる。
マスカの選手は、だいたいが気の短い、ケンカ好きの人間だ。下手に扱えば、すぐに爆発する。それでも、触ろうとする観客は多い。
まして、たまに自分では忘れるが、私は女だ。いかがわしい気持ちの人間もかなりの数に登るだろうし、そんなのに触られれば、絶対に私は蹴り飛ばすだろう。
チームの皆は、そういう意味では、私ではなく観客の方を守っているのかもしれない。
そうなのだ、私は、ケンカがこうじて、こんな違法な試合にまで出る、変わり者のケンカ屋なのだ。
その中で、さらに私よりも十位ほど順位の高い、タイタン。
考えれば考えるほど、無謀な戦いである。身体も震えようというものだ。
だが、今はそんなに怖いとは思わなかった。恐怖が全部消えている訳ではないが、それでも十分に試合に臨もうという気持ちの方が大きい。
ヨシエさんと、そして浩之先輩と会ってから、この短い間に成長した、自分の実力を見てみたい、存分に発揮したい、と本気で思うのだ。
その点で言えば、一度負けた、そしてあれからも強くなっているであろう、今日の相手は好都合の相手だ。
私は、試合場に目を向ける。
珍しく、何のひねりもない、金網で囲まれた試合場だ。下は、コンクリートの肌が出ているが、何か落ちているようなことはない。
マスカの試合としては、地の利を生かしにくい、スタンダードな試合場だ。
正直、私の不利を狙っているだけなのでは、と疑いたくなってくる試合場だった。
相性的に、私に一番良いのは、障害物や落ちているものが多い試合場だ。
跳び蹴りの勢いをつけるのは難しいが、障害物があれば、軽い身体を生かして、上から攻めることもできるし、相手のリーチを殺すこともできる。
反対に、何の影響もないコンクリートのスタンダードな試合場では、力とリーチのある相手の方が断然有利だ。
まあ、砂や水の試合場でなかっただけましなのかもしれない。もし、そんな試合場だったら、私は為す術なくやられている……。
……いや、それでも、私は簡単にやられるつもりはない。
そのために、今日まで鍛えて来たのだ。むしろ、ヨシエさんは、そういう試合場になるだろうとさえ思っていた節がある。
だから、まずは私の体力を鍛えさせた。そして走らせた。下が砂や水でも、十分にスピードを生かせるような体力と、前にも増したスピードを、ヨシエさんは私に求めたのだ。
コンクリートの堅い地面は、私の、本来のスピードを生かしてくれる。足のふんばりは、一撃に十分な威力を乗せてくれる。十分に戦える試合場だ。
ザワリッ、と試合場が揺れる。
試合場に目を向けると、悪趣味な赤いメガネかサングラスかわからないものをつけた男、赤目が立っていた。
……来た。
どくり、とそのときを前にして、鼓動が一度、大きくうねる。
「レディースアンドジェントルマーーーンッ!!」
マイクもなしに、赤目のよく通る声が、観客達のざわめきを突き抜けて響いた。
「長らくお待たせいたしました!! 今日のダンサー達は、一風変わった組み合わせです!!」
まわりの観客の姿勢が、私と試合場の赤目を行き来する。
「ファーストダンスでいきなり三十三位に躍り出た、可憐なる踊り子!! 今度は、巨人に立ち向かう!!」
赤目は好意的に私を紹介するが、まったく嬉しくない。私にとっては不利となるような試合ばかり組む相手に、何を感謝しろというのだろうか。
「可憐な薔薇には刺があり、可憐な蘭には毒がある!!」
赤目の言葉にのせられるように、チームの仲間は、試合場までの道を、観客を押しのけて開ける。
「マスカレイド三十三位、ラン〜〜〜〜〜っ!!!」
観客達の地鳴りのような歓声を間近で受けて、しかし、私は気押されもしなかった。
一瞬、ヨシエさんの方を見る。すがるというよりは、確認する意味でだ。
私の視線を受けて、ヨシエさんは、行ってこい、いや、勝ってこいという顔で、頷く。弟子に信頼を置く、完璧な師匠である。
私は、今度はまわりに目を向ける。
……さすがに、浩之先輩を捜すのは無理か。まさか来ていないことはないと思うのだけど……。
少しだけ、試合よりもそちらが不安になったが、私は、そんな気持ちをたたき落とすように、自分の寮頬を叩くと、試合場に向かって、走り出した。
試合場の入り口は、まだ開いていない。
今なら、できるような気がして、私は姉貴が試合場の扉を開けるのを待つことなく、突進した。
カカカカカンッ
いつも以上に軽やかに動く身体は、金網にたどり着いても、まったくスピードを落とすことなく、私は両手両脚を使って、素早く金網の上に登った。
そして、止まることなく、試合場に飛び降りながら、くるりと一回転して、綺麗に着地する。
一流の動き、とまではいかないが、自分の身軽さを印象付けるには、十分なパフォーマンスが出来たと自分でも思った。
おそらくヨシエさんなどは苦笑しているが、その点に関して言えば、譲る気はない。
ここは、私の晴れ舞台なのだから。
わき起こる歓声を受けて、私は悪い気はしなかった。アドレナリンが、どくどくと身体を流れるのがわかる。
私のテンションが最高潮に達したのを待っていたかのように、赤目は、相手を呼んだ。
続く