作品選択に戻る

最強格闘王女伝説綾香

 

五章・実戦(161)

 

 危険は、知らぬ間に、近くに忍び寄って来ていた。

 

 水着だけではなく、さらに下着まで買い物に付き合わされた浩之は、完全にグロッキー状態だった。試合中の方が、よほど足下がしっかりしているだろう。

 初鹿の方はともかく、ランの方は恥ずかしかったはずなので、浩之としてはそれは嫌がらせとしても初鹿の一人勝ちなのでは、と思うのだが。

 何とか危険な区域を乗り越えて、ここはヤックの中。やっと一息つけるのを心の底から歓びながら、浩之はコーラをすすった。

 付き合わされたランにとって、水着コーナーや下着コーナーを男を連れて歩くのは恥ずかしかったはずなのだが、見たところ、機嫌は悪くなさそうだった。ぶすっとしているように見えるのは、それがランの素の顔であって、細かな表情の変化を読むのは、浩之の得意中の得意とするものなのだ。

 もっとも、表情こそ読めるものの、その意味についてはあまりにも鈍感な部分が、浩之の良い部分でもあり、物凄く悪い部分でもある。

 とにもかくにも、針のむしろのような時間は過ぎた。普段では体験できない体験という意味では、楽しくなかった訳ではなかったが、疲労は激しかったので、もう二度とごめんだと浩之は思った。

 いかにランが勝ったご褒美で、ランが楽しそうにしているとは言え、それとこれとは話が別だ。今日の反応を見る限り、ランはウインドウショッピングが嫌いではないようなので、普通に服を見るだけでも、良かったのではないのか、と思うのだが。

「ご苦労様でした」

「そう思うなら、普通に服見てくれよ」

 いかに柔らかく言われたところで、浩之だって体力が無限にあるわけではないのだ。勘弁して欲しいものはある。

 しかし、予想通りというか、初鹿はまったく表情を崩さなかった。

「あら、でも、ランちゃんも楽しかったですよねえ?」

「……ええ、まあ」

 ランが、しぶしぶながら、という様子でも、そう答えたのだ。それは、かなり今日の買い物が楽しかったということだ。

「でも、結局ランは何も買わなかったんだろ?」

「それは……」

 楽しかったのは本当なのだが、いかに言っても、浩之の前で水着や下着を買うのは恥ずかしかったのだが、その点に関しては、まったく浩之は気付いていないようだった。

 浩之のデリカシーのなさに、初鹿も苦笑しているようだが、何も言っては来なかった。それはそれで良いと思っているのかもしれない。

 少なくとも、ランは、浩之という人間がそれでいいのだと思っていた。

 鋭いようで、強いようで、どこか間が抜けていて、親近感がある。ついでに女の子には、ある意味弱いようなので、ランとしては半分心配で、半分嬉しくも感じていた。

 とりあえず、恥ずかしいなどとは言えないランは、何も買わなかったことに、違う理由を考えた。

「夏に、泳ぎに行く予定はないので、買っても仕方ないと思っただけです」

 それ自体には嘘はない。おそらく、夏もマスカに入り浸るか、坂下と一緒に空手部で練習を続けるかどちらかだろうと予想していた。

 何より、ランは自分が夏の暑い中、海に泳ぎに行って笑顔ではしゃいでいる姿など、本気でまったく想像できない。

 今日、普通に遊んでいることでさえ、かなり希なことなのだ。そう考えると、浩之や初鹿となら、さらに希な海に行くことも考えられることになってしまう。

 そこまで思考がまわって、ランは、唐突に、想像してしまった。

 照りつける太陽、柔らかな波の音、はしゃぐ人々の声。そんな、自分とは関係のないような世界に、何故か自分がいるところを。

 パーカーを着て、何故か恥ずかしそうに顔を赤らめている。横には、他人が見たら多少美化されていると感じるであろう、真面目な顔をしている浩之。

 恥ずかしそうにしながらも、パーカーを脱いで、何故かついさっき薦められた、白いビキニで、浩之の手を取って、楽しそうに走り出す自分。

 ランの乏しい想像力の限界を、妄想が一瞬、突き抜けた。

 ……ありえない。さすがにそれはありえない。

 そもそも、白いビキニなど、買う訳ない。胸のある姉ならともかく、自分が着ても貧相なだけだ。そもそも、痣だらけの自分が脚を晒すというのも考えられない。

 何よりも、浩之先輩と海に行くなんて……。

 今日という日が、自分が勝ったお祝いであることを、ランはちゃんと理解している。何も、自分が特別に見られたからでも、浩之が一緒に遊びに行きたいと思ったからでもないのだ。

 しかし、妄想してしまったものは仕方なかった。それに、駄目もとという言葉もある。ここで、聞いてみるのは、何も悪いことではない、とランは自分を拙い言葉で騙す。

「……浩之先輩、良かったら、夏休みに、海に泳ぎに行きませんか? だったら、水着を買っても無駄にはなりません」

「そうだな。悪くないな」

 浩之は、多分そんなに深く考えていないのだろう、とランは感じていたが、しかし、ランとしてはかなり勇気のいる言葉だったのだ。

 横で、初鹿がほくそ笑んでいるのを見て、まあ、いつも通り柔らかく笑っているだけなのだが、ランの主観から見ると、そう見えたのだ、ランは、やっとしまったと思った。

 この話の流れでは、そのときには初鹿が付いてくるのは間違いなかった。初鹿のことはそんなに嫌いではないが、多少どころかかなり納得できない気持ちになるのも事実で、もし、浩之と二人で行くためなら、明らかに間違った選択だった。

 しかし、そんな考えも、浩之の次の言葉で意味がなくなった。

「あー、でも無理だな。多分、夏休みは完全につぶれるな。何せ、俺もがんばらないと、エクストリームで勝てそうにないからな」

「……そうですか」

 ランは、自分が思う以上にがっかりしているのに驚きながらも、仕方ないとも思った。

 ランから見れば、浩之も十分に強いが、それでもエクストリームの予選では三位だ。ということは、本戦で勝ち残る可能性は、順当に考えればかなり低い。

 浩之の才能はどう見ても普通とは違うので、短い時間でも、驚異的な伸びが期待できるだけに、この夏休みは練習に明け暮れることになるのだろう。

「ま、休みに入る前なら、それでも時間はあるかもな」

 実のところ、浩之は練習をかなりいっぱいで入れている。無茶をしていると自覚のあったランよりも、よほど酷いスケジュールなのだ。遊びに行く暇など、普通ならある訳がない。しかし、それを約束してしまうあたりが、浩之の浩之たるところなのだろう。

 だが、浩之は時間の使い方を、正直、かなり間違えていると言っていいだろう。

「ないわよ、時間なんて」

 その答えが、初鹿でもない、ランでもない、この声だった。

 そう、危険は、浩之の知らないところで、浩之の姿を見つけてしまっていたのだ。

「まったく、たまの休みに、何しているかと思ったら……」

 これ以上ない、と言えるほど不機嫌な声に、浩之はぴきり、と固まっていた。自分が悪いことをしているという自覚はないものの、それでも、本能で危険を察知したのだろう。

 とにもかくにも、もう、逃げることは、できなかった。

 突然の登場に、ランと初鹿ぽかんとしている間に、空いていた浩之の横に、何の遠慮もなく、彼女は座った。

「さーて、一応、説明ぐらいは聞いてあげるわよ?」

 綾香は、口のはしをあげて、浩之の固まった横顔を、なでつけるように見た。

 

続く

 

前のページに戻る

次のページに進む