「今日も、沢地さん休みみたいですけど、坂下先輩何か知ってますか?」
「ああ、ランはちょっと試合後だから、大事取って休ませてるよ。ダメージはそんなになかったとは思うんだけどねえ、今まで無理してたから」
空手部員の後輩、田辺に聞かれて、坂下はこれと言って言いよどむことなく答えた。
田辺は、一体何の試合なのかに首はかしげたものの、深くは追求しなかった。というよりも、坂下の謎のセリフにはつっこまないのが空手部では暗黙の了解だ。一般人が入っていけるような話ではないことの方が多いのだから。
坂下は、こきこきと柔軟をしながら、道場の真ん中に歩いていく。相手は、やはりまったく懲りることのない健介だ。
すでに、二度のダウンを健介は取られている。さっきも、健介が立ち上がるのを待っている間の会話だったのだ。
圧倒的な実力の差だが、それでも健介は立ち上がってくる。
「今度という今度は勝って……」
スパンッ!
「あ……」
健介が憎まれ口を言い切る前に、坂下の拳は健介の顎を打ち抜いていた。声を出したのは、それを見ていた田辺の方で、健介はまったく反応のできなかった。
がくっ、と膝をつく健介。
「う……くっ」
それでも、意識を失わずに立ち上がろうとする根性は、賞賛に値するだろう。というよりも、その根性に関しては、坂下も健介のことをそれなりに認めているのだ。
「根性は認めるけど、もう無理だね。田辺、連れていってやれ」
「あ、押忍」
不安そうに見ていた田辺が、それが自分の仕事だと言わんばかりに、自然に健介に駆け寄って行く。
少しばかり、道場の中の空気が緩んだ。田辺は隠しているつもりなのかもしれないが、この頃健介と田辺の仲が良いのは部員全員にばれている。健介の方は多少どうなのかわからないが、田辺の方はことあるごとに健介の話をしているので、バレバレだ。
「ま、まだ終わって……」
「はいはい、後はKOされるだけなんだから、さっさと休みに行くよ」
健介の根性も、田辺によってあっさり切り捨てられる。
普通なら健介の方が腕力はあるのだろうが、いかんせんKO手前、しかも田辺も下っ端でも空手部員、男一人引きずるだけの腕力はある。あまり丁重にあつかっていないので、床を引きずっているが、健介は田辺に引きずられるまま、道場から出される。
「おーおー、相も変わらず手加減ねえなあ」
今日はさぼらずに出ている御木本が、坂下の容赦のなさを笑っている。
が、御木本も手加減しているのは知っているはずだ。今の坂下が手を本気で手を出せば、健介など秒殺できてしまうだろう。
……まあ、健介程度じゃあ、もう相手にもならないか。
言ったように、坂下は健介のことはそれなりに認めているのだ。大事な後輩の田辺が付き合うのなら、それもいいだろうと思うぐらいには。
そして、マスカレイドでビレンと言う名前で戦っているのも知っている。マスカレイドの十数位の実力というのも、十分分かっている。
また私、強くなってるみたいね。
良い経験になった、という意味では、アリゲーターとの戦いも役に立った。いつもとは違う実力者との試合というのは、かなりの経験になる。
マスカレイドの十何位の実力は、かなり高いはずだ。それでも、今の坂下では、まともに戦う相手ではない。手加減して、指導してやるレベルだ。
もう、健介程度の相手では、問題にならないのだ。
「次は御木本、あんたの相手してやるか」
ぎろり、と坂下が御木本に目を向けると、ぶんぶんと御木本は首を振った。
「いや、まじ勘弁」
「それじゃ練習にならないよ」
「練習よりは命が大事なんだよ、俺は」
まあ、確かに坂下としても、御木本相手ではどうしても手加減が弱くなってしまうのは事実で、御木本が言う言葉もおおげさではなかった。
しかし、池田が今所用で来ていないので、部活でそれなりに坂下の相手ができる人間が御木本以外いないのは事実。そういう意味では健介は十分役に立つ人材なのかもしれない。
「お前、最近気合い入りまくってるだろ。今戦ったらまじで殺されかねねえぜ」
「……よく見てるね、御木本」
試合が近い。どうしてか戦ってみたい、と思ったカリュウとの試合まで、もう後わずかなのだ。そう思うと、つい練習にも力が入る。
まあ、カリュウはその前に現三位との試合があるらしいので、それでカリュウが勝たないと坂下との試合はないそうなのだが、そのときはそのときで、坂下と戦える器ではなかったと思うだけだ。
しかし、気合いを入れているとは言っても、他人に分かるような力の入れ方はしていないはずだ。御木本は、よく坂下を観察していることになる。
「あのなあ、俺は自分の身の安全がかかってるんだぜ? そりゃ観察ぐらいしときますって」
健介が来る前は、坂下と組み手ができるのは池田と御木本だけだったのだ。最近はとくに、池田でも坂下に追いつけなくなって来ている。もともと頭一つ飛び抜けていたとは言え、それでもさらに実力差が開けば、危険なのは池田や御木本の方だ。
「当てる組み手はさっきお亡くなりになったやつかどこぞのバカ相手にしてくれ」
健介と、言わずと知れたどこぞのバカ、寺町のことだ、なら、何の疑問も思わずに、坂下の当てる組み手に付き合うのだ。はっきり言って二人ともバカだ。
だが、まわりの者には不幸と言うしかないが、坂下の精神が高ぶっているのは事実で、それを押さえるためには、身体を動かすしかないのだ。
とりあえず、今日の帰りは葵の方に顔を出すとして。
綾香や葵、それでなくとも、浩之ぐらいなら、坂下の渇きを潤すほどの実力がある。それまでは、つなぎのような練習になるが、仕方ない。
本格的に、坂下の高ぶりは治まらなくなって来ていた。カリュウという格闘家の、どこにそんなに惹かれているのかわからないが、しかし、戦ってみたいという気持ちだけが、無闇にわき出る。
しかし、今、とりあえず高ぶったものを沈めるために。
「逃げる相手を追いながら攻撃するってのも、悪くない気がするね」
すでに危機を察知して逃げ腰になっている御木本に狙いを定めた。問題はない、御木本なら、見事自分から逃げ切るだろうという確信がある。
だから、坂下は何も不安なく、御木本を狙って、動き出した。
続く