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最強格闘王女伝説綾香

 

五章・実戦(166)

 

「いや、そんな飢えた獣のような目で見られても、俺も困るんだが」

「誰もそんな目してないよ」

 浩之の正直命が惜しくないのかと言いたくなるような冗談を、坂下は仏のような心で流した。拳の一つでも出した方が坂下らしかったのかもしれない。

「……何で藤田しかいないんだ?」

 御木本に逃げられて、坂下はかなり欲求不満のまま、神社に来ていた。いかに慣れているとは言え、坂下から逃げることができる御木本はなかなかのものだと思われる。

 綾香はいないだろうが、葵がいれば、この欲求不満も解消できると思って来てみたのはいいが、何故か浩之だけで、そこに葵はいなかった。

「葵ちゃんは、今日は整体行ってるぜ」

 格闘家にとって、やはり一番やっかいなのは、怪我だ。しかも、単純な外傷よりも、身体の中の方の怪我の方が、発見しにくい上に、危険である。

 骨や腱は、痛くなってからでは遅いのだ。それを考えて、坂下もそうだが、定期的に整体に通って、身体の調子を見てもらっている。一緒にマッサージもついているのでやってもらえば、身体の疲労はかなり軽減できるので、重宝している。

「今日しか予約取れなかったらしくてな」

「遠杉先生のところ、人気だからねえ」

 坂下もひいきしている整体師の先生は、腕がいいのでかなり人気なのだ。予約を何日も前から入れておかねばならない。しかし、身体のことを総合的に見てくれる整体師というのは多くなく、結果予約が取れたときに行くしかないのだ。

「葵ちゃん、最近は身体の調子は良いとは言ってたけど、やっぱり怪我は怖いしな」

 実はちゃんと定期的に身体を見てもらえと助言したのは浩之で、葵の通う整体を薦めたのは坂下なのだ。

 ちなみに、浩之は武原道場でやってもらっているので、そこには行っていない。

「で、何だよ、坂下。その欲求不満ですって顔は」

「いや、最近私の相手できる人間がいなくてね」

「健介は?」

 前まで葵の舎弟となっていた健介は、葵と坂下の話し合いで、空手部に入れられてみっちりと鍛え直されているはずだった。というか、丁度来ていた寺町にぼこぼこにされているのを浩之も見た。

「健介? ああ、私に毎日KOされても挑んでくる根性はいいんだけどね。まだまだ実力的には甘いから」

 うーん、そんなに健介弱かったかあ? と一瞬思ったが、それは坂下のレベルで物を言えばそうなるだろうと、すぐに浩之は思い直した。

 健介の戦い方は、挑発的な言葉で相手の冷静さを無くすことと、手に持ったボールを投げつけ、そこから生まれる隙を狙うという、あまり実力のみに頼った戦い方ではない。それでも、ついこの前までなら浩之だって十二分に苦戦する相手だと思うのだが。

 今よく考えてみれば、例えばあの寺町と比べると、はっきり言って迫力が無さ過ぎる。試合形式になって武器が使えなくなったのならなおさらだ。

「てか……毎日KOされているのか?」

「部活がある日は毎日、三回はやってるねえ。一応、医者にも行かしているし、今のところ元気そうだから、いいんじゃないのか?」

 頑丈な男である。浩之が思う以上に見所があるのかもしれない。というか、坂下にぼこぼこにされていることに親近感を余計に感じた。浩之も一方的に綾香や葵にやられることも多いので、他人事ではないのだ。

「それで、毎日哀れな子羊を餌食にしている坂下は、それでも満足しない、と」

「……藤田、あんたさっきから私にケンカ売ってない?」

「いや、売ってねえよ。だいたい、事実だろ? どこの部活に、毎日KOされなくちゃならないような激しい部活があるんだよ」

 坂下は肩をすくめた。

「仕方ないだろ、健介の方がフルコンタクトで組み手をやると言って来るんだ。先輩として、毅然とした態度を取ってやるのが隙だろ?」

 それはどうだろう? と浩之は思った。

 だいたい、浩之がランの相手をしているときなど、ちゃんと寸止めしているのだ。浩之とランとの実力差でそれができるのだから、坂下と健介の実力差でそれができないとは思えない。坂下の怠慢か、またはKOするのを楽しんでいるとしか思えない。

 冗談ではなく浩之はぞっとした。坂下に、毎日KOされるなど、考えただけでも命が縮む。よく健介は生きているものだと思う。

 深くは関わりたくないものだと思いながら、浩之はサンドバックに目を戻した。これ以上話していても危険なだけなので、真面目に練習しよう、と考えたのだ。

「そう言えば」

 ふと、坂下が別の話題を振って来た。

「最近、ランと仲がいいらしいね」

 坂下がなにげなくそう言って来たので、浩之も、別に何を思うこともなく答える。

「ランか。まあ、なり行きでな。とりあえず、前の試合は勝ててよかったよな」

 ランは、浩之とのことを坂下にまったく話していないのだが、そんなこと浩之は知らない、というよりも、話しているものと思っている。練習のことを考えれば、誰と練習しているというのを坂下に言っておくべきだという思いが最初からあるからだ。それに、浩之には、ランが自分と練習しておくことを秘密にしておく意味など思いつくはずもない。

 反対に、坂下は体育会系でおおざっぱな性格と言われることもあるが、ちゃんと人を見ている。そして格闘技の実力は本物であり、二方向から見れば、ランの横に誰がいるかなど、簡単にわかってしまう。

 だから、浩之がランとのことをしゃべっても、誰も責められないだろう。

「昨日、もう一人共通の知り合いと一緒に、ランの勝利祝いに遊びに出たんだが、そこで綾香にあっちまってな」

「へえ」

 浩之は何げなく話しているが、坂下の目から見ると、それはかなり危険な状況なのではないのか、と坂下は思った。

 恋愛事にはそう強くはない坂下だが、ランが誰を見ているのか、誰に惹かれているのかぐらいはわかっているし、その点で言えば、葵も同じようなものだから、むしろ分かり易い部類に入るのだ。

 共通の知り合いってのは……やっぱり女だろうな、藤田のことだから。

 坂下は、自分が偏見に基づいてそう考えたことには自覚があった。しかし、冷静な偏見というものは、全部とは言わないものの、かなりの率で正しいものを指すわけで、今回は坂下の自覚ある偏見が正しかったりする。

 まあ、多少邪魔はあるとは言え、せっかくあこがれの先輩……いや、この表現は藤田には似合わないか、気になる先輩と一緒に遊びに行ったのに、そこで綾香に遭遇、か。

 坂下は、ランを気の毒に思った。

 浩之とランの間がうまくいくなど、神でもない坂下は断言はできないものの、正直無理だろうというのは予想している。

 しかし、ランの気持ちを考えてやらないわけでもないのだ。

 無理な理由は色々あるが、その、おそらくは一番の障害を、目の前にしてしまったのだから。

 来栖川綾香の横に立って、まだ自分の方が女性として良いと思える人間など、何人いるだろう? しかも、実際に超えるとなれば、本当に少ないだろう。

 綾香を目の前にして、しかも綾香が浩之と親しくしていたときのランの気持ちを考えると、坂下でもいたたまれない気持ちになる。

「ん、どうした、坂下。やっぱ坂下も呼んだ方が良かったか?」

「……はあ、こいつは」

 こういう話に、自分が口を挟むのは筋違いだと坂下は思っているので思ってやりはしない。

 しかし、少なくとも、こうは思うのだ。

 顔をしかめていたこと自体にはすぐに気付くくせに、その理由に何故かたどり着かない、その目端が利くのに鈍感な、確かに、それでも格好はいい浩之。

 こんな鈍感な男の、どこがいいのやら。

 そして、浩之の良さを、やはりそれなりに理解しているだけに。

 分かるような分からないような、分かりたくないような。

 坂下は、少し微妙な気分になるのだった。

 

続く

 

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