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最強格闘王女伝説綾香

 

五章・実戦(167)

 

 ザザザザッ!!

 滑り込むように坂下のパンチをかいくぐった浩之の靴が、地面を削る。

 何度もここで組み手をして来たので、この一角は地面が削れ、草が無くなっていた。そこを、坂下の相手をしている浩之がさらに削るのだ。

 坂下と組み手をするのは、かなり久しぶりの話だった。怪我が治ってまだそう経っていないし、最近は坂下の方もランにつきっきりだったこともある。

 しかし、久しぶりに経験する坂下は、やはり冗談ではなかった。

 近づけるものではない。浩之は、そのまま坂下の射程範囲から逃れようとした。

 しかし、そう簡単に逃がしてくれるほど、坂下は甘くなかった。不用意に後ろに下がった浩之が不用心だったとは、さすがに言い切れない。

 逃げようと後ろに重心を持って行った浩之に、坂下がつっこんでくる。逃げるために使った脚はすでに無く、避けるなどという余裕はすでにない。

 動きの止まった浩之に向かって、坂下の綺麗な正拳突きが放たれる。

 こなくそっ!

 浩之は半分やぶれかぶれに、そして半分冷静に、腕を腰を使わずに腕だけの力で振るう。

 すぱんっ、と軽い音をたてて当たった浩之のフックによって、坂下の正拳突きが方向をずらされ、浩之のほほにかする。

 ほほに走る傷みを無視して、浩之は今度こそ坂下から距離を取った。

 危機一髪で逃れた浩之は、距離を取ったにも関わらず、まったく油断できずに、構えを解くことができない。

 ぜいぜいと肩で息をしている浩之に対して、坂下は、少しは汗も出ているようだが、まだまだ余裕がありそうだった。

「ど、どうだ、それなりに形になってきただろ?」

 打撃で相手の打撃をそらす。もともとは、中谷が試合で見せた技を、見よう見まねで使ったのが最初だった。しかし、浩之がそれを何度も何度も使うことによって、浩之の中で昇華され、浩之の技としてかなり定着していた。

 坂下の打撃を打ち落とせるレベルだ。誇ってもいいだろう。

 ただ、一歩でも間違えば、直撃を受けていたのは間違いなく、そもそも、ほほをかすめているあたりで、かなりぎりぎりだったのだが。

 しかも、坂下相手では、打撃をはじくのが精一杯で、その後に打撃をつなげるなど正直不可能だった。下手をすれば、打撃をはじいた後でも坂下の打撃の方が速いのだ。

 様になってきたなどとは、他の相手ならともかく、坂下相手では言えない。それを言うのは、時間稼ぎがしたいだけだ。

「まあまあだね」

 一方の坂下は、冷静なものだ。まあまあ、と言うには浩之の打撃はじきは完成されてきているが、それが自分に通じるほどではないことを、ちゃんと知っているのだ。

 これがランぐらいなら、まだまだ浩之の相手は無理ね。

 怪我をしてどうなることかと思っていたが、やはり藤田浩之という男、怖ろしい才能があると坂下は再度思っていた。

 健介や御木本では、まだまだこの粋にはたどり着いていない。いつか、そう、本当にいつか、自分に追いつくのでは、と思うほどの才能を感じる。

 ただ、惜しむらくは、まだ坂下の方が、圧倒的に強い、ということだ。

 しかし、浩之だってそれぐらいの自覚はあるのだ。だから、坂下の一瞬の隙を逃さない。

 坂下が思考に入った一瞬を見て取ったのか、さっきまで逃げ腰だった浩之がいきなり坂下との距離を詰めてきた。今日は今まで、一度も攻勢にまわらなかった浩之が攻撃にまわったことで、一瞬だけ、坂下の対応が遅れる。

 速いワンツーを、坂下はとっさに受け流した。しかし、それが本命でないのは、すでに身体が覚えている。これはコンビネーションの流れだった。

 この後に続くコンビネーションがどこに来るかは、さすがの坂下にも来てみないとわからない。だが、よほどのことがないと、坂下は防御を失敗することはない。

 どこに来る?

 その思考というにはあまりにも素早い、つまり反射の動きが、一瞬、止まる。

 来……来ない?

 たった、一瞬。その来ると思った一瞬のタイミングを、坂下は外された。

 どんな強者でも、基本的に人はリズムによって動いている。そのリズムから外れた動きをしたとき、例えそれが速くなくとも、人は簡単に対応できるものではない。

 「速さ」ではなく、「遅さ」によって、浩之は坂下の鉄壁の防御をすり抜け、身体を坂下の脚に密着させていた。

 打撃から組み技への変化に、まったくのよどみはなかった。怪我をしたというのに、衰えはまったくない、いや、むしろ怪我の前よりも鋭くなっているのではないだろうか?

 激しい試合を経験した結果が、浩之にはちゃんと出ていたのだ。別に坂下の教えた相手ではないし、後輩でもないのだが、それでも、弟子が強くなるような気がして、坂下は少しだけ嬉しく感じた。

 がっちりと、浩之のタックルは決まっていた。しかし、坂下には、浩之のことを思ってやるぐらいの余裕が、そこにあったのだ。

 坂下の身体は、ぴくりとも動かなかった。どっしりと腰を落とした坂下の下半身の力は、浩之のタックルを、正面から受け止めていたのだ。

 ここで止まったら、後はやられるだけ。思考ではなく、経験則でそれを知っている浩之はさらに力を込めるが、それでも自分よりも体格の小さい坂下を、一歩も動かせない。

 なるほど、エクストリームの試合は、浩之を成長させた。こんな劇的に成長する人間など、世界にだって多くはないだろう。

 しかし、浩之が怪我をしながらも得た経験があるように、坂下も遊んでいた訳ではないのだから、坂下なりの経験というものがあった。

 マスカのアリゲーターと戦った試合は、坂下にさらに高いレベルで組み技、そして総合格闘家に対する経験をさせていた。

 最初からあるものに、さらにプラスがあるのだ。浩之がおいそれと近づけるものではない。

 それでも、今は下に入り込むまでやった。これから、この男はどこまで強くなるのだろうか?

 強い者と見れば戦いたくなってしまうどこかのバカと同じような性癖を持つ坂下。

 彼女は、少し、ほんの少しだけ、浩之のことを、怖い、と思った。

 それは一瞬で、闘争心に塗り消され、坂下の中には、一瞬だけしか色を残さなかったが、普通なら、坂下にはありえない色を、浩之は作り出したのだ。

 しかし、今は、その浩之にとっては絶体絶命だった。

 無理、と判断した浩之が、坂下の横にまわりこもうと身体を動かし、一瞬頭があがったところを、坂下は容赦なく、叩いた。

 すくい上げるような坂下の掌打が、坂下の脚を掴んだまま横にまわろうとしていた浩之のあごを、すくい上げた。

 音もない一撃で、浩之の身体は力を無くし、地面に落ちた。

「……ふうっ」

 組み手相手をKOさしたにも関わらず、坂下の表情は、けっこう満足していた。いや、そうでなくては、浩之も浮かばれないというものだが。

 とにかく、はた迷惑な坂下の衝動は、浩之という犠牲によって、解消されたのだった。

 

続く

 

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