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最強格闘王女伝説綾香

 

五章・実戦(169)

 

 何が悪かったのだろうか?

 自分は、一体何を間違ったのだろうか?

 そんな疑問にさいなまれながら、ランは走っていた。力の限り、全力で。しばらくは身体を休めておけという坂下の言葉は、すでに頭から抜けている。

 ランは、身体を休めないとと思ってはいたが、ただ休むのも暇なので、浩之達の練習を見学でもしようと思っただけなのだ。

 空手部の方に行かなかったのは、すでに時間が遅かったのと、坂下に家でおとなしくしていろと言われるだろうと思ってのことだった。

 浩之に会いたいとか、そういう気持ちはなかった、とラン自身は思っていた。しかし、すでに、その言葉が出てくる時点で、少なからず考えてしまっていると言える。

 もやもやとした気持ちは消えなかったが、浩之に会いに行くと思えば、少しはそれが晴れていたのだ。

 その場面を目撃するまでは。

 神社についても、音がしないのを、ランは少し不思議に思った。時間もそれなりになっているので、もう帰ったのかとも思ったのだが、一応、見るだけ見てみようとした、それが間違いだったのだ。

 境内をのぞいてみると、そこには、坂下と浩之がいた。

 珍しい組み合わせだ、と思ったのは一瞬のこと、ランは、その光景に凍り付いた。

 坂下が、浩之を膝枕していたのだ。

 もし、浩之とあまり親しくなかったころのランが見ても、驚いた光景だろう。坂下と膝枕という組み合わせは、普通におかしいと感じるものだ。

 だが、今のランにとっては、そんな甘いものではなかった。まさしく、身体に電撃が走ったような気がした。

 いつもなら自由に動くはずの身体は、完全に固まってしまって、動こうともしない。

 坂下の表情は見えない。いや、見える位置ならば、坂下もランの存在に気付いただろうが、坂下はランの存在に気付いていないようだった。

 それが坂下と浩之だというのが、見間違いであればいい、とランは願った。顔は見えないので、その可能性はゼロではなかったが、しかし、どう見てもその二人であり、声をかけても、何を言っていいのかランには分からない。

 一体どうして膝枕などしているのか、聞ける訳もない。

 坂下にはにかみながら、ランの望まないことを言われたら、ランの中の大切なものが壊れるような気がした。

 ランには、音をたてないように、ゆっくりとそこから遠ざかることしかできなかった。幸いというか、坂下はランの存在に気付いている様子はない。

 坂下が、浩之の髪に指をからませた時点で、ランはもうその姿を見ることもできなくて、背を向けて、それでも静かに、その場を去った。

 そして、もう坂下が完全にランのことに気付かないだろう、という距離を取ってから、走り出した。

 準備運動も何もなく全力疾走を始めたランに、身体はすぐに悲鳴をあげる。まだ厳しい練習ときつい試合のダメージは治り切ってはいないのだ。

 しかし、ランはふらふらになりながらも、少しでもあそこから遠ざかろうと、脚に力を入れる。

 限界は、早かった。数分も走らないうちに、ランはその場にへたり込むことになった。人通りがない場所まで来ていたからいいものの、今のランには人目を気にする余裕はなかった。

 急激な、そして限界まで酷使された肺が、酸素を求めて息を吸い込もうとして、激しく咳き込む。吐きそうになりながら、ランはその場に崩れ落ちた。

 身体を限界に持っていけば、頭の中はからっぽになるはずだった。しかし、ランの頭の中は酷くクリアで、現実を思い出させる。

 何で……

 声にならないランの心の叫び。ラン本人には、痛いほど聞こえてくるのだ。黙ればいいと思っても、まるで第三者のように、ランの言うことを聞いてくれずに、言いたいことだけを頭の中に流す。

 何で、ヨシエさんが……

 息切れを起こして傷みを感じる肺とは別に、胸の中に、どうしようもない傷みが走る。

 その気持ちを、どう言葉に出していいのか分からずに、ランは胸を押さえたまま、しばらく動かなかった。

 が、息が整って来るに従って、さっきまでもまったく小さくならなかったと思った、心の声はさらに大きくなる一方だった。

 ヨシエさんが、どうして浩之先輩に膝枕なんて。誰にでもあんなことをする人じゃないのに。

 まさか。

 胸の奥が、ぎゅっと締め付けられる。苦しくて、泣いてしまいそうになる。

 そんなことはない、今までもそんなそぶりは見えなかったし、親しさで言えば、松原さんや来栖川綾香の方が浩之先輩とは仲が良かったように見えた。

 でも、考えてみれば、最初に私が浩之先輩とケンカをしようとしたときに止めたのはヨシエさんであり、何も思っていない相手に、そこまでするだろうか?

 いつものランなら、それを「する」と思ったろう。坂下は、浩之ほどではないにしろ、けっこうおせっかいなところがある。それに、怪我をしている知り合いを見捨てるような人間ではないのは、ランが良く分かっているはずだった。

 しかし、今のランには、そんな当たり前のことがわからない。

 まさか、ヨシエさん、浩之先輩のことが……

 そこで、ランの思考は考えるのを止め、ループを繰り返す。まるで結論を出すのを拒むかのように。

 浩之の相手が、綾香なら、ランにとってはまだいい。いや、良くはないが、あくまでそんなに親しくない相手で、そこにわだかまりはない。しかし、相手が、自分の尊敬する坂下だと思った瞬間に、ランの心は酷く傷付いていた。

 その事実を確かめた訳でもない。しかし、聞くことなど、できない。

 しかし、もしそうであったとしても、ランが衝撃を受ける理由などあるはずもない。少なくとも、ランが自覚している状況なら。

 明らかに他人が見れば分かるのに、ランはまだ自覚なく、矛盾した思考を続ける。

 それを指摘する者は、当然いない。しかし、指摘しようがしまいが、ランが衝撃を受けて、冷静な判断が出来なくなっているのは間違いなかった。

 それでも、時間が経てば、人間はそれなりに何かしようと動き出す。混乱し、矛盾し、どこも正常に動いていないというのに、ただ動くために、動く。

 のろのろと立ち上がると、ランは家に向かって歩き出した。

 完全に思考は停止し、さきほど見た光景だけが頭の中をループする。家に向かうのも、それを身体が覚えていたから。

 ごちゃごちゃになる思考の中、浮かんだのは、浩之の、やる気のなさそうな、それでも優しそうな顔。

 それは、ランの胸をただ、痛くするだけでは、なかったのが、余計に、救いのない話だった。

 

続く

 

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