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最強格闘王女伝説綾香

 

五章・実戦(171)

 

「こんばんは。また遅い時間にお邪魔します」

 玄関の初鹿が、深々と頭を下げたを、ランの母親は慌てて止める。

「そんな、気にしなくていいの。それよりも、ランに会ってあげて」

 幽霊のような死んだ目で家に帰って来たランのことを、母親は心配しているのだ。

 何かあったのは分かるが、母親は、ランにどうしたのかなど聞けなかった。夕食を食べよう、などとも言えないほどランの表情は酷いものだったのだ。

 人生経験で言えば、ランの倍以上もあるのだから、相談されれば、助言することもできるだろうが、ランが母親に相談することなど、ありえない。

 だから、沈んでいるランをなぐさめるなり、話を聞いてあげるなりするのは、ランがそれなりに気を許している友人しかいない。

 姉のレイカでもいいのだろうが、レイカはあまり家には帰って来ない。たまに、寝るためとか、お風呂に入るためとか、服を取りに帰って来たりするだけだ。

 母親が知るランの友人と言えば、この前家に来てくれた初鹿だけだった。

 しかし、母親が初鹿の連落差を知る訳もなく、家に来たということは、ランが呼んだのか、前から約束していたのか、どちらかだろう。

「何か飲みます?」

 自分が部屋にお茶を持って行く勇気のない母親は、初鹿に飲み物を持っていってもらうつもりだった。

「何か冷たいものでももらえますか? 私が持っていきますから」

 その気持ちを察したのか、初鹿は、前のように断らなかった。

「ごめんなさいね、本当に……」

 自分のふがいなさに母親は顔をしかめる。

 初鹿は、それには何も答えずに、柔らかく笑って首をかしげた。それで、母親は少し落ち着くことができた。

 母親に用意してもらったジュースを持って、初鹿は二度目のランの部屋に向かった。

 

 冷房をかけていない所為で、部屋の中はかなり暑い。

 ランは、自分の部屋でベットの上で、壁にもたれかかるようにして膝をかかえていた。暑くないことはないのだろうが、今の初鹿のまわりは、温度が十度ほども低そうに見える。

 見事な落ち込み様だった。どんな人間でも、ここまで落ち込んでいる人間に言葉をかけるのは躊躇するだろう。

「こんばんは、ランちゃん」

「……こんばんは」

 しかし、初鹿はにこやかに笑って、少しも躊躇しなかった。

「さすがに暑いですね。初鹿ちゃん、クーラーかけてもいいですか?」

「……どうぞ」

 落ち込んでいるわりには、ランは律儀に初鹿の言葉に反応している。

 少なくとも、初鹿を呼ぶだけの思考は残っているのだ。見た目は完全に落ち込んでいても、初鹿の言葉が聞こえていない訳ではないことを分かっているのだ。

 リモコンを見つけ出して、初鹿は冷房のスイッチを押した。すぐに、涼しい風が二人に送られてくる。

「おば様からジュースをもらってきましたから、一緒に飲みましょう?」

 初鹿は、コップをランに差し出すが、ランはそれを手に取らない。だが、初鹿はまったく気にせずに、そのままコップをランに差し出している。

 三十秒もせずに、ランは仕方なく初鹿からコップを受け取る。

 受け取ったコップから、ランは条件反射のように、ジュースを飲む。先ほどに全力疾走をした後で、喉はかなりかわいていた。そこに、恵みの雨のように、水分が行き渡る。

 ランは、大きく息を吐いた。水分を補給して、身体がまさに一息ついたのだ。

 それと同時に、ランは思い出さなくていいことまで、思い出してしまった。さっきまでは、茫然自失であって、何も考えないように努めていたのに、落ち着くことによって、頭が正常にまわりだしてしまったのだ。

 落ち着いた、と思った瞬間に、ランの表情が一変したのを見ても、初鹿は何も驚かなかった。初鹿がどうして自分を呼んだのか理解していたからだ。

 しかし、何があったのかなど、いきなり聞いたりしない。ランが話し出すまで待つつもりなのだろうか。

「何で……」

 ぽつり、とランはつぶやく。

 ランには、理解できない。どうして、坂下が、あの坂下がだ、浩之に膝枕などしていたかなど。どう考えても、道理に合わない。

 初鹿は、まだ何も言わない。ただ、いつも通り柔らかい笑顔でランを見ていた。

 ランが初鹿を呼んだのは、他に呼ぶ相手がいなかったからだ。服を選ぶときと状況は同じ。ただ、初鹿を呼べば一体何が解決するのかさえランにわからないところが、前とは決定的に違う。

 とにかく、何かに掴まりでもしなければ、耐えられそうになかった。初鹿を呼んだのは、藁にもすがる思いだったのだ。

「浩之先輩が……」

「浩之さんが、どうしました?」

 あくまで、初鹿は優しくランに話しかける。

 このときのランは、思考を全てそちらに取られており、正常な思考などできなかった。

「……ヨシエさんが、浩之先輩を膝枕してたんです」

「ヨシエさん……話に聞く、ランちゃんの先輩ね」

「はい……」

 頭がまわっていない所為で、初鹿にわけを言ってしまったのは、もしかしたら失敗だったのかもしれない。しかし、もし、正常な判断ができるときであっても、初鹿が聞いてくる内容を、ランは予想できなかっただろう。

 半分自覚はあっても、あるからこそ、その答えに、ここまで来てもまだランはたどり着いていないのだから。

「それで、ランちゃんは、ヨシエさんが、浩之先輩に膝枕をしているのを見て、ショックを受けた、それでいいの?」

「……はい」

 改めて言われただけで、ランの胸の中に、重いものが生まれる。これを外にはき出してしまいたいと思うのだが、一体何をすればはき出せるのか、思いつかない。

 感情にまかせてまわりに八つ当たりでもすれば、気が晴れるのかもしれないが、ランは、レディースに入って、しかもケンカをしているのに、そういうタイプではなく、何かあったときは、内にためてしまうタイプなのだ。

 だから、今回も、そのまま自分の中で溜めておけばよかったのだ。

「私は、どうしたら……」

 解法を人に聞くなど、愚の骨頂なのだ。何故なら、自分で、その問題にすらたどり着いていないのだから。

「その前に、ランちゃん、もしかして」

「?」

 ランは、顔をあげて、初鹿の方を見た。初鹿は、珍しく柔らかい笑顔を崩して、少し驚いているようにすら見えた。

「ランちゃん……自分が、どうして悩んでいるのか、自覚あります?」

「え……それは、ヨシエさんが、浩之先輩のことを……」

 ずきり、と胸が痛む。考えただけで、そのまま地面に沈み込みたい気持ちになる。

「ヨシエさんが、浩之さんのことを好きだと、後輩のランちゃんは困るのですか?」

「え?」

 ランにとっては予想外の言葉。

「ヨシエさんと浩之さんの恋愛関係は、ランちゃんに、関係があることなのですか?」

「それは……」

 ランの口からは、何も言葉が出なかった。答えないのではない、答えられないのだ。

 ランの中には、その答えが、ないのだから。

 初鹿は、大きくため息をついて、少し迷いながら

「私が言ってしまっていいのかどうかわかりませんでしたが、こうなってしまっては、もう仕方ありませんよね」

「初鹿……さん?」

 ランは、物凄い不安にかられた。

「いいですか、よく聞いて下さい」

 言ってはいけなかった言葉を、口にした。

「ランちゃんは、浩之さんのことが、先輩としてではなく、男性として、好きなんですよ」

 ランは、完全に、今度こそ、凍り付いた。

 

続く

 

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