作品選択に戻る

最強格闘王女伝説綾香

 

五章・実戦(174)

 

 じっとりと蒸し暑い夜、ランは一人でベンチに座っていた。

 さきほどまでは、家でいじけていたのに、その時間になると、初鹿がいるにも関わらずここに来てしまった。病気のようなものだ。

 初鹿は、ランのことを心配してついて行こうかとも言ってくれたが、断った。

 この時間、ここに行けば、浩之に会える。今まさに浩之のことで、身体の震えが止まらないほど悩んでいるのに、ランの身体は自然にそこに向かっていた。

 初鹿は、このタイミングで浩之に会いに行くことに、何か特別な理由を考えたのかもしれない。でなければ、今のランを一人で行かすことはしなかっただろう。

 今のランは、マスカレイドでそれなりの順位を取るような猛者には、まったく見えない。惚けていて、隙だらけだ。街を歩けば、おそらくいかがわしい手合いに声をかけられるだろう。

 もっとも、ランとしてはその方が気が楽だった。この気持ちが少しでも晴れるのなら、多少なりとも自分にちょっかいをかけてくる相手にぶつけてししまおうと思っていた。

 今のランは、見た目は隙だらけ、しかし近づけば襲ってくる、かなりたちの悪い少女だ。まあ、なら声をかけなければいいという話もあるのだが。

 でも、そんな私に、浩之先輩は声をかけてくれたんだ。

 隙だらけだったとは言わない。しかし、思い悩んで、沈んでいるときに、それを見かねて浩之はランに話しかけたのだ。一応は、顔見知りだからということもあるだろうが、考えてみれば物凄いおせっかいだ。

 そして、物凄いお人好しだった。

 ランの目から見て、浩之は女の子達に人気がある。まったく浩之と関わり合いのないランのクラスの女の子達ですら、話題にすることがあるのだ。

 話してみて、さらに人気が出ることはあっても、外見だけだと言われることは、おそらくあるまい。

 そんな浩之だから、わざわざランに声をかけることもないのだ。見渡せば、綺麗な女の子もかわいい女の子もよりどりみどり、ランのような無愛想なぶさいくに声をかける必要など、まったくないと、ランは思っていた。

 しかし、さすがに綾香と比べるのは分が悪いと言え、ランだって十分にかわいい部類に入るのを、彼女は自覚していない。ただ、確かに無愛想なのは事実である。

 ……浩之先輩、遅いな。

 時間的には、そうでもない。ランが、多少早く来ただけだ。しかし、考えてみれば、ランの試合は終わったのだし、その後の約束はしていないのだし、浩之がここに来るという確信はなかった。

 待ち遠しいのと、来ないのでは、という不安が、ランに時間を気にさせるのだ。

 待ち遠しい、そう、もうランはそれを認めない訳にはいかなかった。しかも、それが坂下に感じているものとは違うことも、本当は認めたくなどないが、認めていた。

 もう、認めるしかない。

 ランは、望んだ訳ではないのだ。そこだけは確か。しかし、どうしよないことに、もう覆せないほどに。

 それは、恋だ。しかも、初恋だ。

 何でこんなことに、と思った。

 普通に、ちょっと軽いけれど、強くて、少しだけ自分のことを見てくれて、多少なりとも尊敬できる先輩。そんな位置を、ずっと浩之が占めてくれていたのなら、どれほど良かっただろうか、とせんもないことをランは思った。

 さすがにそんな都合の良い存在など、普通はありえないのだが、浩之や坂下は、ランにとってはまさにそれだったのだ。

 親とあまり仲が良くない所為か、ランは年上の頼れる存在というのを好む。それは姉であったり、チームの仲間であったりする。チームの全員がランよりも年上で、それを好ましいと思うランの心情が顕著にそれを表している。

 最近は同級生ともそれなりに仲良くできているが、それはランの人生の中でも珍しいことなのだ。

 そう、ランさえそれで良かったら、年上の、頼れる存在として、浩之はそこにいてくれるはずだった。それで、ランは良かったのだ。

 しかし、それを壊したのは、結局、ランの所為なのだ。

 これなら、あのとき浩之先輩が声をかけて来なければ……

 ランは、その想像をして、ぞっとした。

 もし、浩之が、恐怖に立ちすくむランに声をかけなかったなら。

 ランは、あの後立ち直れなかったかもしれない。いよいよとなれば、坂下が何かをしてくれた可能性はあるが、それだけを頼りにするしか手がないぐらい、あのときのランは追いつめられていた。

 そして、浩之との組み手で手に入れた色々な強さ。

 浩之がランにくれたもの。そのどちらもなかったのなら、ランが、タイタンに勝てたとは、到底思えない。

 もう一度、タイタンに負けていたなら、ランはもう立ち直れなかったかもしれない。自分はここまでなのだ、と見切りをつけて、マスカを止めて、それでも戦うことからは離れたくなくて、心地よい空手部に身を置いて、ケンカの世界から脚を洗ったかもしれない。

 それは想像するだけで怖いこと。ランは、次がないと思っても、今マスカに夢を持っているのだ。それが立たれる怖さは、想像だけでランを恐れさせる。

 そして何より、ああ、そう、本当はそれが、一番、怖い。

 浩之先輩が私に声をかけなかったら。私に、勇気を与えてくれなかったら。

 私は、浩之先輩を好きにならなかった。

 この、胸にある傷みとも暖かみともわからないものが、なかったかもと思うと、それは怖い、というよりも、むなしい。胸に穴が空いたように感じる。

 忘れられるのなら、苦しみなどないはずなのに、もし、そこに忘れるという選択肢があってもを、忘れることを選ぶなんてことは、ランにはできない。

 それぐらいなら、今悩んでいる方が、何倍もいい。

 浩之が、自分に何の遠慮も思慮もせずに、普通に話しかけてくれるだけで、ランは幸福な気持ちになれるのだ。何で、こんなに嬉しいものを捨てられるだろうか。

 これが恋でなければ、どれほど良かったか、とだけは、思う。単なる尊敬や慕っているだけで、同じ気持ちを感じられるならば、何もこんなに悩むことはなかったのに。

 恋は、それはこんなにもいいものだとは思っていなかったけれど、それ異常に、怖いものだ。

 悲恋や失恋にも、恋という言葉はつく。

 そして、ランの場合、かなりの可能性でそうなることをランは自覚している。その見立てが正しいかどうかは別にして、ランがそう思っているのなら、辛く悩むこととなり、すでにそれでランは不幸なのだ。

 それでも捨てたくない、と思わせる。恋は、人を惑わせるのだ。年端もいかない、経験なんてほとんどないランなど、枯れた落ち葉のごとく、だ。

 ランは、人の気配を、暗い公園の向こうから感じた。思い悩んでいても、そちらには物凄い神経を向けていたのだ。

 ランが神経を向けている方から、いつも、浩之は来るのだ。

 それが、お目当ての人だと分かった時点で、ランは顔がほころぶのを、何とか押さえようとして、けっこう失敗したような気もするが、それでも何とか、いつものように無愛想に、というのも失敗したかもしれないが、挨拶した。

「浩之先輩、こんばんは」

 

続く

 

前のページに戻る

次のページに進む