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最強格闘王女伝説綾香

 

五章・実戦(179)

 

「……お邪魔します」

 緊張した面持ちで、ランは玄関の床に足を乗せた。おっかなびっくりのその様は、臆病な小動物を見るようであり、ランには珍しい姿だったので、浩之はついつい笑ってしまった。

「……何ですか?」

 何故笑われたのか分からなかったのか、ランは物凄い不満げな表情で、浩之を睨み付ける。しかし、そこに迫力なんてものはない。ほほを染めて口をとがらせた少女に、迫力などあろうはずがなかった。

「そんなに警戒するなって。いや、何も取って喰ったりしなねえよ」

 まあ、普通に考えれば、こんな夜遅くに、男の家に来るのはどうかとも浩之は思うのだが、少なくとも浩之にそんな気はないので、取って喰ったりはしない。

 夜にあかりが夕食の残りを持って来たりもする、残りと言う割には温かい出来たてなのに浩之は今のところ気付いていない、ので、女の子を夜に家にあげたりしたことはある。

 しかし、女の子と言ってもあかりだけなので、あかりを女の子と分類していいものか、浩之も悩むところだ。それに、今はさらに時間が遅い。

「警戒はしていますが、別に信頼していない訳ではないです」

「あ、いや、冗談だから。そんなに真面目に取るなって」

「……」

 ランは怒ったような、でもどこか楽しんでいるような、でもやっぱり不満そうな、微妙な表情になる。まあ、間を取ると怒っているようにも感じられる。

「冗談にしても、時と場合を選んで下さい」

 こんな時間に、女の子を家に上げて、喰う喰わないという冗談は、確かにTPOをわきまえているとは言えない。浩之が、ランに対してそんな気持ちはないとは言え、もう少し考えるべきだろう。

 せめて、ランの気持ちを知っていたなら、そんな冗談は言わなかっただろうが。幸か不幸か、浩之は鈍感で、だからこそ、ランは微妙な気持ちにさせられていた。

 しかし、浩之の方にはまったく反省の色はない。

「悪かったって。おわびに、お茶だすから機嫌直せって。確か紅茶のティーパックぐらいはあったはずだからな」

 そんなものは常備していないが、春先にあかりが置いていった分が確かあったことを浩之は思い出していた。

「いりません、こんな熱いときにホットなんて」

 この夜も、涼しいとは決して言えない気候だ。紅茶よりは、キンキンに冷やしたジュースの方がいい。ちなみに、ジュースは切れている。

「確かに、俺も遠慮したい」

 そう言っておどけた浩之を見て、ここに来てから初めて、ランは顔をゆるめて、小さく笑った。

「ほら、ランもそうやって笑ってた方がかわいいって」

「なっ!?」

 ランが、浩之のまったく他意のない言葉に、絶句して、あまりのことに思考が停止する。ランの精神というものは、そんなに頑強には出来ていないのだ。そっちの話になれば、なおさらのこと。

 純情、と言い切って良いだろう経験が圧倒的に不足したランと、無自覚ながら百戦錬磨のジゴロ、藤田浩之では、当然勝負にもならない。

 だいたい、ランは自分が寝てたのでは、と思うほど、さっきから記憶が曖昧なのだ。どういう理由で、浩之の家にまで着いてきたのか、ほとんど思い出せない。ランニングで、まだ遠くを回ってくる浩之と約束をして、知っている場所で待ち合わせをして来たことまではわかっているのだが、それをどう浩之に了承させたのか、自分のやったことなのに、見当がつかない。

 反対に浩之の方は、何故か強情に家に行きたいと言って来たランを、最初な何かと理由をつけて断ろうともした、主にそれは時間の問題を考えてだ、のだが、反面、別に時間以外の理由で断る理由もなく、女の子というものが、ときとして、物凄く理不尽なことを言い出すことを、経験則として知っていたので、途中で引き下がったのだ。

 最初の公園とは違う、浩之の近くの小さな公園で落ち合う約束をして、ランを一足先に行かせ、自分はランニングを続けて戻って来たのだ。

 こんな時間に女の子を一人にするというのも、あまり誉められたことではないが、ランはむしろこの時間の住人であり、ランを倒せるような人間は、住宅街を獲物を探して歩いてたりは、かなりの確率でしない、と判断したのだ。

 それよりは、まだ完全に疲労の取れていないランが、ランニングに付き合おうとしたのを止めるための要因も大きい。

「……その冗談も、笑えません」

 やっと意識を取り戻したかのように、ランは顔の赤みを隠しきれないまま、何とか不機嫌そうな顔を作って、浩之を責める。

 ランにとっては、一番酷い冗談なのだから。

「いや、これは冗談じゃないって」

「……そんなことありません」

 玄関から一歩も動けないまま、ランは顔を赤くして下を向いてしまった。

 外見というものに、ランは今まで自信を持ったことはない。正確には、そこに価値観を置いたことがなかったのだが、それはつまり今まで気にしていなかった、つまり努力を怠っていた部分を前面に出すということで、そこに自信など生まれようはずがない。

 だから浩之の言うことを信じられないのだが、でも、浩之にそう言われれば、悪い気はしない。それが、顔を上げる勇気がなくとも、赤みが差す理由だ。

「だから本当なんだけどな。まあ、とりあえず玄関で立ちっぱなしも何だし、とりあえずリビングの方に……」

 と、浩之はそういや自分は汗かいてるからどうしようか、ランを置いておいてお風呂に入るのはまずいよなあ、などと考えている矢先。

 プルルルルルルッ

 いきなり鳴り出した音に、びっくりしたランが飛び跳ねた。ランには悪いが、その驚きようは笑える姿だったのだが、それと同時にめくれたスカートからのぞく白いふとももに目を奪われた浩之は、後輩をそういう目で見るのは良くないだろう、と一人自戒していた。

 プルルルルルルッ

 玄関に置いてある電話が、鳴り出したのだ。電話がかかってくるにはいささか遅い時間なのだが。

「ちょっとごめんな」

 浩之は、一度だけランに断って、ランがそれに頷くのを見て、浩之は受話器を取った。

「はい、もしもし、藤田ですが」

『夜分遅くすみません』

 受話器から聞こえる、電話を通した少し不明瞭な声は、真面目そうな女性の声だった。浩之は、その声を主を記憶から呼び起こそうとするが、すぐには思いつかない。

私、藤田君の同級生の坂下と申しますが、藤田君ご在宅でしょうか?

「……てか、坂下かよ」

『何だ、藤田か』

 さっきまで真面目そうだった口調が、いきなり崩れる。

「何だ、はないだろ。あんな外向けの声出されたら、わからないだろ?」

『電話ってのは、その点は苦手なんだよね。電話越しじゃ、本人かどうか何て、すぐにはわからないし』

 その点については浩之も賛成だ。あかりの家に電話すると、たまにあかりの母親、ひかりがあかりの真似をして浩之を騙そうとしたりするが、それは特殊な例としても、親が出る可能性がある場合、確かに外向けのしゃべり方をする。

 なあなあで話しかけて、それが相手の親や兄弟だった場合ほど、恥ずかしいことはない。

「で、こんな時間に何か用か? ああ、そっちの用も聞くとして、丁度ここにランが来てるぜ」

『はあ? 何でランがこんな時間に、藤田のところいるんだい? まさか藤田、あんた葵や綾香じゃ満足できなくて、ランにまで手を……』

「ちょっと待て、誰が手を出した誰が。てかその冗談は、聞かれると俺が本気で死ぬのでやめろ、まじで」

 自分の身の危険を感じた浩之は、とりあえずその冗談だけでも止めさせるために坂下と言い合いを始めたので、気付けなかった。

 ランが、不自然なほどに、脂汗を流して、硬直していることに。

 

続く

 

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