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最強格闘王女伝説綾香

 

五章・実戦(184)

 

「うう、もうお婿にいけない」

 さめざめと泣き真似をしていた浩之だが、綾香が拳を握りしめたのを見て、慌てて背筋を伸ばして座った。このまま遊んでいたら、貞操どころか命さえ奪われかねない。

 見事にお風呂でKOされ、あわや貞操の危機かと思われた浩之だったが、何とか自力で復活して来た。というか、溺れそうになった事に関してぐらいは、綾香も悪いと思っていたのか、上半身を引き上げるだけに止めておいてくれたのだ。

「まあ、気絶している間に何されてもわかんないし」

 というのは、綾香の言。非常に不安になる言葉だが、弱い浩之は嫌なことからわざと目をそらした。

「で、こんな時間に、用件って何だ?」

 綾香が家に来るなんてかなり珍しいので、それなりに重要な用件なのかと、浩之は思っていたのだが、浩之をからかって、ついでにKOして遊ぶところを見ると、そんなに重要な話ではないのでは、と思えてくる。

 綾香は、ぽんっ、と手を叩いた。

「忘れてた」

 忘れるなよ。忘れるなら水着の方忘れろよ。

 浩之の声にならない叫びは半分綾香に理解されていたようにも思えるが、当然黙殺。

「まあ、別に今日でなくてもいいんだけど」

 そう前置きをする綾香。

「というか、家にいる時間のはずなのに、電話かけても出ないし、ちょっと心配になって家まで来てみれば、もぬけの空。また何かやっかい事に巻き込まれたんじゃないかって、一人心配していた私に、何か用かって言いたい訳?」

「うっ!?」

 そう笑顔で言われて、浩之も返す言葉がなかった。

 普通なら、やっかい事って何だと言えるのかもしれないが、浩之の場合冗談では済まないことが多い。非常に刺激の多い人生を送っている浩之なら、当然のようにやっかい事に巻き込まれて、むしろしかるべきだろう。

 しかも、チェーンソーのことで、多少なりとも思い当たるふしがある。綾香が心配した、と言われればそれは返す言葉などない。

「で、やっかい事に巻き込まれた訳じゃ、ない……とは言い切れないみたいね」

「面目ない」

 別に浩之の所為ではないのだから、浩之に謝る理由などないのだが、流れで浩之は謝っていた。それに、単純に少しでも綾香を心配させたのは、自分が悪いと思ったのだ。

 頭を下げた浩之を、綾香は見えないように暖かい目で見ていた。

「まあ、心配しなくても、浩之なら心配いらないと思うけど」

 そのつぶやりはあまりにも小さく、浩之の耳には届かなかった。

 この世の誰にも、才能という点ならば負けることはない、と自負してきた綾香が、初めて同等に置いた男なのだ。多少のやっかい事ぐらいで倒れるとは思えない。

 綾香は、からかって楽しいだけの男のお風呂に乱入したりなど、しない。

 客観的に見れば、来栖川綾香以上のやっかい事など、よほどのことでもないように思えるのだが、当の天災も、さすがに、というかやはり天災なだけに、自覚はなかったりする。

 だから、綾香はあくまでえらそうに、言ってやるのだ。

「許してあげる」

 超Sの気のある綾香のことなので、そのまま浩之を嬲るという誘惑にもかられたのだが、紙のような自制心でそれを押さえ込む。

 失礼、多分紙の方がまだ硬い。

「それで、話なんだけど……デートの誘いに来たのよ」

 自他共に認める美少女、来栖川綾香からデートに誘われる。男なら誰でも泣いて喜びそうなものだが、浩之は多少、違った。

 危険と隣り合わせの日常によって研磨された、だがしかし状況を打破するためにはまったく役立たずの、浩之の危険察知能力が、全霊を込めて警告して来る。

 うまい話には、裏がある。子供ならそれを知らずにいられたのかもしれない。しかし、浩之はそれがわかるぐらいには、もう大人だった。貞操は、多分、守りきったけれど。

 ぴっ、と綾香が手にした、二枚の、何かのチケットらしきもの。

 いやー、絶対やばいよなあ、これ見たらまたろくなことにならないんだろうなあ、とか考えてはいたが、言ったように、浩之の危険感知能力は役立たず。察知はできても、回避は不可能。泣けるほど役立たずだ。

 半分悟りの境地を開いた浩之は、チケットを見る。

 案の定、そこにはろくでもないことが書いてあった。

「なあ、綾香?」

「何?」

「俺が見る限り、そのチケット、マスカレイドの、三位と五位との試合のチケットに見えるんだけどさ」

「奇遇ね、私もそう」

 にこやかさをまったく失わない綾香。さすがは鉄の女。

 失礼、鉄の方がよほど柔らかい。鋳造とかできるし。

 煮ても焼いても高熱で溶かせるものなら溶かしてみろと言った感じの綾香。

 先ほど、浩之のことを心配していた余韻など、台無しである。

「あのなあ、綾香?」

「ん?」

 軽く首をかしげる綾香は、そう、わざとなのだろうが、わざとらしい以上に、非常にかわいらしい。

 そう、何を置いても、結局、浩之の幸も不幸も、綾香と会ってしまったことが何よりも大きな分岐点だったのだ。

「マスカレイドの人間に、綾香、嫌われている自覚あるのか?」

 マスカレイドのファン達から見れば、マスカレイドの選手はホームの選手で、綾香は敵チームの選手だ。

 一時前の熱狂的な阪神ファンの中に、巨人ファンが紛れ込んでいたらどうなるだろう? ましてや、そのとき阪神が負けていたら?

 いや、日本の野球程度ならまだいい。例えば、ヨーロッパで敵チームの街に、一人で一流サッカー選手が歩けばどうなるか?

 状況は、もっと悪い。マスカレイドは非合法で、その非合法な部分は、直接的な暴力なのだ。

 その危険さを、綾香は分かっていない?

「もちろん。表の試合じゃ、ヒールなんてできないし。思いっきり楽しんでるわよ」

 聞くまでもないことだ。綾香は、よーくわかっている。

 坂下を襲おうとたくらんでいたアリゲーターが見せしめで倒されたことによる抑止力とかを考えれば、実際に手を出される可能性は低いが、しかし、危険性がない訳ではないし。

 そもそも、そんなところに、のこのこ観戦に行こうなどという綾香の神経を、まず疑う。

 浩之は、大きくため息をついた。

 危険? そう、綾香よりも、一緒にいる浩之の方が、実力的に言っても、マスカレイドの選手ではないことから言っても、危険だ。

 しかし、そこに綾香を一人で行かせることを思えば。

 自分の危険など、いかほどのものだろうか?

「わかった、行く」

 綾香は、当然、という顔で、意地悪く笑った。

 格好つけて何だが、いや、ほんとに浩之は危険なんてあんまりない、と思っているのだ。それが希望的観測で終わるのが、世の常になりだしていることに、気付いていない訳ではないのだが。

 いつだって希望的観測は、人を狂わせる。恋ほどではないにしろ。

 

続く

 

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