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最強格闘王女伝説綾香

 

五章・実戦(205)

 

 ドドドンッ!!

 重い音が、道場の中に響いた。それに思わず首をすくめる部員は、ここにはいない。すでに慣れた光景だからだ。

「ふっ、はっ」

 道場の中に据え付けられたサンドバックにもたれかかるようにして、坂下は息を整えていた。しかし、それもほんの一分ほど。すぐに体勢を整えると、また重い音を出しながら打撃の連打を繰り返す。

 スピードも、パワーも、どちらもこの空手部の中では一番だ。そんな打撃を連打して打つ、という非常識さを、ここの部員はもうすでに納得していた。坂下だから当然だ、と。

 いや、それにしたって、今日はかなり異常だ。

 部活が始まって、準備運動が済んでからすぐ、池田に部員の指導をまかせて、坂下はずっとサンドバックを叩き続けている。もうかれこれ、一時間ほどにもなろうか。

 打撃というのは、無酸素運動と呼ばれる種類の運動だ。身体の中に蓄えてある酸素を使って、それが切れれば、力は出なくなる。そして、身体に蓄えられた酸素など、たかが知れている。

 そんな運動を、一時間も繰り返す坂下は、もう人以外の何かなのかもしれない。

 他の部員は、まあこういうこともあるだろうと最初は思っていたのだが、さすがに、無茶なのでは、と感じ始めていた。

 普通に考えれば、明らかなオーバーワークだ。

 根性主義が及ぼす弊害というものが叫ばれるようになって久しいが、もちろん、厳しい練習というのは、弊害はあってもそれなりの効果も出る。

 しかし、やりすぎ、は必ず問題しか起こさない。

 そんな坂下の横では、手持ちぶさたそうに健介が池田と組み手をしている。

 健介の実力から言って、部員の中で相手ができるのは坂下、池田、御木本ぐらいだが、御木本は今日はさぼりだし、どうせいても相手をしないのは目に見えている。なので、池田が相手をしているのだが、健介は坂下の方をちらちらと見て、集中していないのは明らかだった。

 そもそも単純な組み手なら池田の方が実力が上なのに、さらにやる気がなければ勝てる訳もない。すでに何度も一本を取られている。寸止めしていなければ、坂下の打撃ではないとは言え、KOはまぬがれないほどだ。

 いつも通り「勝負だ!」と元気よく坂下にケンカを売った健介だが、坂下が今日は相手をしないと言ったので、すねているのだろう。

 健介でさえ、不足だと坂下は考えたのだ。これで下手に健介の相手をすれば、それこそ、今までもって来たこの根性だけはあるバカを本当に壊しかねない、と思ったのだ。しかし、それは健介には伝わらないし、坂下も伝える気はなかった。

 そんな健介を、やはり集中せずにちらちらと見る田辺。田辺の場合は、まわりが気を使って手加減しているようなので、今のところ問題はないようだ。

 悲喜交々。

 そう思うランも、そうやって観察しているところから分かるように、まったく集中していなかった。

 坂下が何をそこまで気合いを入れて練習しているのかは、事情を知っているランは知っている。

 それが、練習、というよりは、発散、であることを。

 とうとう、坂下の次の相手がカリュウであることが決まったのだ。

 ランには、一体何故坂下がそこまでカリュウにこだわるのかわからないし、どうも坂下の方も自分でわからないらしいが、その点は置いておいても、かなりの選手だ。

 戦いに歓びを感じるタイプの坂下としては、もう待ちきれないのだ。その気持ちを抑えるために、こんな無茶な練習とも思える行為を繰り返しているのだ。

 しかし、おそるべきは、無茶であるはずの練習を、こなしていることだ。

 坂下から見れば、ストレス発散のための適度な運動程度なのかもしれないと思うと、ランもさすがに非常識さに頭痛がしそうだ。

 私が無茶な練習をしていたときよりも、今のヨシエさんの練習の方がきつそうなのに。

 あのときは、毎日ぼろぼろになっては家に帰ってお風呂に入るなりベットに倒れ込んでいたものだが、それよりもきつい練習を、発散として使うのはどうだろう?

 私みたいに、練習にいいことがあるわけでもないのに。

 あのとき、毎日浩之に付き合って練習していたことは、ランにあの辛い練習を続けさせる原動力になっていたのは間違いない。

 でなければ、根性はある方だとラン自身は思っているが、それも尽きていたかもしれないのだ。

 あのときは、良かった。今のような気持ちを抱えることもなくて、ただ目の前の敵が怖かっただけなのだから。

 現金なものだが、すでにランはタイタンを怖いとは思っていない。いや、もう一度戦って勝てるかどうかはわからないのだが、一度超えたものは、やはり怖さは薄れる。

 その代わりに、今のランの胸には、違う重しが乗っかっている。

 まだ練習とは言っても、軽いものしか坂下が許していないのもあるが、ランが練習に集中していない理由は、それだ。

 浩之先輩は、この時間は、松原さんと練習をしていたりするのだろうか?

 そこには、あの来栖川綾香も来ているのだろうか?

 さっきから、そんなことばかり考えている。

 浩之が、近くの神社で練習しているのは聞いている。葵や綾香と一緒にしていることも知っている。

 そこに混ざりたい、とは、ランは正直思っていない。

 むしろ、浩之にここ、空手部で一緒に練習してくれればいいのに、と思っていた。

 ランはあまり自覚がないが、すでにこの空手部を自分の場所だと感じているのだ。

 しかし、それよりもそう思う理由は、やはり綾香の所為だろう。

 来栖川綾香という、どこを取ってもモンスターとしか呼び様のない彼女がいる限り、ランは浩之と一緒にいても苦しいだけだった。

 でも、浩之先輩が来れば、ヨシエさんも喜ぶのだろうか?

 そうであろう、と思うと、やはりランの気持ちは沈む。綾香とはまた違った意味で、坂下には勝てそうにない、と思っているのだ。

 葵でも、ランから見れば十分かわいらしい少女で、もし二人きりで練習していると思うと、そわそわして、いてもたってもいられなくなる。

 浩之先輩と一緒にいたい。でも、その理由がない。

 夜には、いつもの場所には向かう。しかし、当面試合が組まれることもなければ、まだ無理な練習をするほどランの身体は回復していない。

 基本的に、ランが組み手の相手を必要としなければ、浩之はランニングの途中にあそこを通るだけだ。

 毎回、それでも立ち止まって多少話はしてくれるが、ランだって、浩之の練習の邪魔をするのは本意ではない。

 いっそ、部活が終わってから、行ってみようか。

 学校の下校時刻に縛られていない所為で、部活が終わるよりも遅い時間まで練習をしているらしいことは知っていたし、坂下が、サンドバックを叩くだけで満足するとは思えないので、帰りに寄る可能性は高い。

 それについて行く分には、何も違和感はない、はずだ。

 そうやって慣れていけば、一人で行っても、何も不思議がられることはないように思えた。

 そこに、綾香がいた場合は、むしろ自分が苦しい、というのを考えないでもなかったが、しかし、浩之に会うことの方が、嫌な想像に優った。

 後は、どうやって部活を早く終わらせようか、と、やはり練習に集中せずに、ランは考えるのだった。

 

続く

 

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