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最強格闘王女伝説綾香

 

五章・実戦(210)

 

 現代日本は、世界でも有数の治安を誇る国である。最近はぶっそうになってきた、と言われているが、街中で人が殺されたことぐらいですぐにニュースになるぐらい、治安がいいのだ。

 それを、単に危険に疎い、という人もいるかもしれない。

 日本が安全だからこそそうなったのか、もともとそういう民族なのか。確かに、日本人は危険に対して鈍感である。

 街中でいきなり斬りかかってくる通り魔などに対処できる人間など、ごく一部だろう。平和な世界に生きる高校生ならなおさらだ。

 しかし、一般より遥かに危険に近い場所にいるとは言え、それでも高校生の域を超えていない、坂下は超えていてもおかしくはないのだが、だろう四人が、その危険に対して、瞬時に気付いたのは、何のことはない。

 その危険が、あまりにも危な過ぎる所為で、見逃すことすらできなかったのだ。

 見るまでもなく、その危険は浩之達を侵す。

 殺される、と浩之は思った。と同時に、身体が構えを取る。浩之の意識とは別に、短い間だが、身体を削り取るようにして叩き込んだ技術は、浩之の身体を動かして危険に対して身構えたのだ。

 ランも、葵もそうだった。唯一、坂下だけが腕から力を抜いた状態で、突っ立っている。しかし、それは恐怖のあまり動けないのではない。この中で、誰よりも素早く動こうと思うからこその脱力だ。

 ここまでの殺気を叩き付けられたというのに、坂下は緊張すらしなかったのだ。

 そこにいた、危機、その怪物は、四人に向かって、殺気を叩き付けていた。この中の誰か一人にそれが注がれていたとしても、それを判断する手だてがない。殺気が濃厚過ぎて、まるで濁流の様に四人に叩き付けられているのだ。

 ここって、平和な日本だよなあ?

 いつもなら、そんな軽口すら思いついているかもしれない浩之にも、まったく余裕がなかった。熊に合ったら目をそらすなという話があるが、熊など問題にならない。

 今、もし目を離せば、そのときは首と胴体が泣き別れるときだ、と思い知らされる。

 この四人でかかれば、本物の熊ではさすがに分からないが、人間であれば勝てない訳がない、そうは思うのだが、そんな算段すら許さない。

 圧倒的な、危機。

 その危機は、四人に何ら気概を加えることなく、その場から消えた。

 それが去るまでの時間は、わずか、二、三秒のことだった。しかし、その間、音は途絶え、虫すら沈黙を保ったように浩之は感じた。

 そう、その危機は去った。後に残るのは、危険ではあるが、少なくとも差し迫った危険ではなかった。まあ、浩之にとっては、だいたい彼女は危険なのだ。

「ごきげんのようだね、綾香」

「あんたほどじゃないわよ」

 いつもと何の変化もなく綾香に近づく坂下。二人とも、どこか苦笑ともつかない笑みで挨拶を交わす。

 浩之は、このとき初めて、気付かない間に、その危険に向かって、坂下が数歩近づいていたのに気付いた。

 あの殺気に、近づくか普通?

 許されることなら、後ろを向けて逃げたかったぐらいだ。それを許ささなかったのは、まぎれもなく綾香だ。綾香の殺気が、後ろを向けば殺す、と言っていた。自火に言っていた訳ではないが、間違いない。

「て、さっきの殺気、綾香かよ」

 まったくそんな気はなかったが、まったくうまくない冗談のようになった言葉に、浩之は大きくため息をついた。冗談っぽくなったのにも気付かなかった葵も、安心したように息を吐く。

 ランは、まだまったく安心した様子はない、どころか、余計に警戒を深めているようにも見えるが、ランと綾香の付き合いは浅く、それも仕方ない、と浩之は思った。

 しかし、浩之や葵にとっては、あの殺気が綾香なら、何も驚くことはなかった。

 それが、綾香の姿を二人に見せないほどの殺気だったとしても、綾香ならそんな殺気を放っても不思議ではない、と思えたからだ。

 綾香が、何でそんな真似をしたのか、という疑問については、やはりそんなに不思議に思わない。綾香はだいたい理不尽なことが多いのだ。実害がなかっただけ、むしろよかったとすら浩之は思うぐらいだ。

「おはよ、浩之、葵、それに、ランだったっけ?」

 どこらへんがおはようなのか分からないが、浩之達も思い思いに挨拶する。

「よう」

「お疲れ様です」

 ランは、小さく頭を下げただけで、目すら合わせなかった。一応、ランの勝利祝いに一緒に遊んでいるので、面識がない訳ではなのだが、よそよそしい態度だった。

 まあ、仕方ないか。いきなりあんな殺気叩き付けられたら、機嫌も悪くなるよな。

 綾香との付き合いはそんなに長くないが、理不尽なことが多かった浩之としては、慣れたものだ。だから、常識に当てはめて、ランが不機嫌になったとしか思わなかった。

 もう、すでに常識の枠から完全に外れているというのに、慣れてしまった所為で気付けない。危機管理が弱いと言われても仕方なかった。やはり民族性の問題なのかもしれない。

「そうそう、浩之。さっき遠くから見てたけど、好恵のパンチまで打ち落とせるようになったの?」

「いや、もう一回やれって言われたら丁重に断るけどな」

 浩之は、我ながら、よくもまああれを成功させたものだ、と感じているのだ。

 もちろん、ただ打ち落とした、正確には打ち上げたのだが、のではない。その前の届かないパンチは、坂下の攻撃を誘うためのフェイントだった。さらに言えば、丁度坂下がパンチを打ち易いように体勢を持っていくことも忘れていない。

 狙い易い位置に、坂下は吸い込まれるように手を出したのだ。坂下を制御して、攻撃させる場所を限定させて、そして坂下に、先に手を出させた。

 タイミングも、坂下のではなく、浩之のタイミングになっていたのだ。自分のタイミングに持っていき、そして来ると分かってなお、ぎりぎりだった。

 前に突き出された腕の重さが、まだ浩之に腕に残っているようだった。

 失敗すれば、直撃を喰らうと分かった上で、コンビネーションのミドルキックにつなげている。坂下の寸止めに期待して、もう一つ無茶を重ねているのだ。無茶にもほどがある。

 そこまで完璧に準備して、真っ正面から坂下に叩き割られたのだから、もうやってられない。勝負でも試合でも浩之の負けだ。

 しかし、その間の技自体には、綾香はえらくご満悦のようだった。

「相手の技だったのに、かなり浩之の身についているんじゃないの?」

「そうですよね、もうまったくよどみがありませんよね」

 葵もそれに追従する。何のかんの言っても、一番、一緒に練習する時間の長い葵が言うのだから、それは間違いない。

「私は完成してからしか見ていませんから」

 ランは、追従するというよりは、自分の意見として言った。言葉からは分かり辛いが、技について肯定的なのは口調から分かる。すでに人の技ではなく、最低ランには通用するまでになってからしか見ていない。だからこそ、それを浩之の技としか思えないのだ。

「そ、そうか?」

 確かに、相手の打撃を打ち落とすそれは、身になれば、逆転を狙うことすらできる、必殺の技になる可能性を秘めている。

 そう思って浩之も練習している訳だが、それが半分でも坂下に通用したことは、喜ぶべきことなのかもしれない、と思い直す。

 女の子達によってたかって誉められて、調子に乗っているとも言う。自分に大した自信はないが、自虐性がある訳でもないので、それは調子に乗ったりもする。

 事実、調子に乗って良いほどは、努力もしているし結果もだしているのだ。

「よし、じゃあ、もうちょっと練習に付き合ってもらうよ。綾香が来て中途半端で止められたしな」

 ただ、調子に乗る場所は選んだ方が良かった、と言わざるを得ない。最低、今はまずい。殺気は放ってはいなくとも、危険はどこにでも潜んでいるのだ。

「いや、綾香が来たからそっちと……」

 今日の坂下がまずい、というのは十二分にわかっていたので、そうやって逃げ口上をする浩之。

「ちゃんと藤田とやった後にやるさ」

 藤田を殺ったの間違いじゃねえのか?

 そう思った浩之だったが、それを口には出せなかった。そして、残念ながら、その言葉通りになるにも、そんなに時間はかからないだろう。

 

続く

 

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