目の前の女が、にやり、と笑う。
悪役としても、ヒーローとしても、怖ろしいほど見栄えのする女だった。
でも、問題はそこじゃない。外見だけなら、私にとっては何ら問題ではない。
問題は、その顔が、あまりにも凶悪なことだ。そして、それが外見にとどまらず、強さにも起因していることだ。
私は、ごくり、とつばを飲み込む。
駄目だ、駄目だ、絶対に無理だ。私には、何も出来ない。
私は、必死に腕を持ち上げる。脚技だけを使う私が腕を持ち上げるなんて、意味のないことだけれど、防御を少しでも固めないと、と身体が求めているのだ。
素早く動くことを武器にする私にとっては、つまりもう負けたも同じだ。
わかっている、だから、私は必死で上げた腕を、無理矢理押さえる。そして、緊張してがちがちになっている脚から、何とか力を抜こうとする。
隙だらけの私を目の前にして、その女はまったく攻めて来ようとはしない。にやにやしながら、私があがいているのを見ているだけだ。
くそっ、なめやがって。
そうは思っても、そんな悪態すら言葉に出せない。緊張で喉が動かないのだ。
怒りと恐怖と焦燥が、私の中でブレンドされて、どう説明していいのか分からないものが、胃液と一緒に出ようと、胃を締め上げる。
このままでは、やられる。
私は、それでも何とか、虚勢を張るために、女をにらみつける。
しかし、それが、スイッチになった。
無造作に、女は私に近づいた、のだろうけれど、そのスピードを、私の目は判断できなかった。
スパンッ
軽い音を立てて、私の顎に拳が入り、一瞬で、私はその場にくずれ落ちた。
「……はあ……」
シミュレートを終えた私は、大きく息を吐いた。
駄目だ、まったく相手にならない。
相手を目の前にしただけで、恐怖に足がすくんでしまった。こちらから手を出すことさえできなかった。
それどころか、相手にパンチ一発しか使わせることが出来なかった。得意のラビットパンチさえ、出させることができなかったのだ。
来栖川綾香。
いくら表の世界に興味のない私でも、あの女の名前を知らない訳はないし、試合も、マスカでも、エクストリームでも、何度か見たことがある。
何より、今日もヨシエさんと組み手をするのを、ずっと見ていた。
その結果分かったことは、来栖川綾香の強さだけだ。想像で、少しは自分の有利になるように考えても、それですら、まったく相手にならなかった。
考えれば考えるほど、格が違うのを思い知らされる結果になる。
勝てない、何をやっても、刃物を持っても、多分拳銃を持って来たとしても、何十人も人を集めても、まったく勝てる気がしない。
ヨシエさんに負けてから、私はヨシエさんと戦う想像をまったくして来なかった。だから、あのレベルの相手と戦うのが、どれほど無謀であるのかから、目をそらしていることができた。
それが必要になったとき、私は絶望しか感じなかった。
でも、勝たなければならない。でないと……
来栖川綾香を相手にした、という地獄の想像で感じた焦燥よりも、さらに強い焦燥が私の思考を揺らす。
一度家に帰って、私はいつも通り、公園に向かった。電話では、浩之先輩が掴まらなかったからだ。
浩之先輩を待つ時間は、いつもなら楽しいはずなのに、今日はあせりしか感じることが出来なかった。
入れ違いになったらどうしよう。もし、私の忠告を察知した来栖川綾香に、先に浩之先輩に会われたらどうしよう。
いつも通り、浩之先輩は、ランニングをして公園に来た。そのときの私の安堵は、言葉には表せれない。
間に合った、と一瞬安心した私だったが、しかし、いつ襲われても不思議ではないのだ。浩之先輩に挨拶も早々、すぐに本題に移った。
私の話を聞いて、浩之先輩は、あろうことか、苦笑したのだ。
いや、よく考えてみれば、当たり前の話だ。冷静に、ただの第三者として私の話を聞けば、私なら苦笑どころか鼻で笑う。
親しい女友達、もしかしたら彼女なのかもしれない、が、命を狙っている、と。
命、までは言わないにしても、最低、五体満足では済ませない、そういう部類の殺気だったと、私はちゃんと説明したのだ。
それが与太話だ、と言われると、それまでの話。そう、考えてみればおかしなことを言っているのは間違いないのだが、それ以外に、私には説明のやりようがなかった。
しかし、苦笑した浩之先輩は、私の話を聞いて、それが冗談だとも与太話だとも思わなかったようだった。
「まあ、そういうこともあるかもなあ」
あろうことか、呑気にそう言ったのだ。
あのときは、さすがに私も一瞬、言葉を無くした。変なことを言う後輩の話を、適当に流した、とすら思わなかった。
浩之先輩が、苦笑だけれども、嬉しそうに笑っていたから。
意味が、わからない。変なことを言っているのは私の方なのに、何も分からなかったのは、何故か浩之先輩ではなくて、私の方だった。
「綾香のやつ、常識知らない訳じゃないのに、常識無視するからなあ。殺気の一つや二つ、いつものことさ」
そう言う浩之先輩の言葉に、当たり前だ、私は納得できなかった。
いつものこと、というのは、なるほどそういうこともあると思う。あの殺気は、来栖川綾香やヨシエさんにとってみれば、私の理解できないレベルの話で、普通のことなのかもしれない。そうであってもおかしくないほど、あの二人は強いと思う。
ただ単に、浩之先輩にいつものこと、と言われれば、私が一人突っ走ってただけだ、とも取れたかもしれない。
でも、浩之先輩が、どこか嬉しそうにするので、そういう理解すら、出来なくなった。
浩之先輩は、あの殺気の、それのどこかを、嬉しい、と思うということなのだ。
分からない、分からないけれども、危険だ、というのだけ、それだけは、何があっても間違いない。
浩之先輩は、私の忠告に、意味があるかどうかは別にしても、警戒ぐらいして欲しいのに、それすら、期待できそうにない。
だから、私はその危険を、浩之先輩の前から取り除こう、と思ったのだ。シミュレートしてみて、それが不可能なのも、すでに分かっている話だが。
……でも、他に何の手がある?
私の持つ力の中で、一番強いのは、ケンカの強さなのだ。というよりも、それ以外の手札を私は持たない。
しかし、悲しいかな、相手の一番強い手札も、格闘技なのだ。
これでは、浩之先輩を守れない。
格闘技の強さは、私よりも浩之先輩の方が強いのだから、それこそ私の出る幕などないのだが、それ以外の手となると、本当に、何もなかった。
私は、部屋の中で、ずっとうなっていたが、それでも、結局、何も思いつかず。
いつの間にか、電話を手に取っていた。
続く