「もちろん、こんな時間に呼び出されることに、私は全面的に賛成する訳ではないですよ? でも、ランちゃんのたっての頼みならば、喜んで来ますよ」
「文句を言っているようにしか聞こえません」
私は、思わずそう言ってしまってから、慌てて言葉を続けた。
「す、すみません。もちろん、初鹿さんには感謝しています」
こんな非常識な、というほど遅くはないが、呼び出すには遅い時間に、電話一本で来てくれた初鹿さんに対して、私が文句を言える立場ではない。
自分が礼儀正しいとは思わないが、最低限の礼儀はわきまえているつもりだ。何より、初鹿さんには本当に感謝しているのだ。
初鹿さんと出会ってから、この人には迷惑をかけっぱなしだ。それなのに、律儀に付き合ってくれる初鹿さんを、冗談でも悪く言う訳にはいかない。
特に、こんなどう判断して良いのか分からない内容であっても、真面目に聞いてくれる人など、そうはいまい。
「えーと、でもごめんなさい」
初鹿さんは、そう断って、話を続ける。
「正直、どういう状況なのか、私にはよくわからないのだけれど。軽くまとめてみますね?」
私は頷く。それほど、自分の説明が支離滅裂だったというのを自覚しているからだ。
自分のことながら、何を思ったのか、あの後、私は初鹿さんに電話して、来てもらった。問題なければこちらから行きますとも言ったのだが、初鹿さんは、いつもの優しいが押しの強い声で、初鹿さんがこちらに来ることを決めたのだ。
いつものことながら、初鹿さんのそれは、真綿で締められる、という言葉を、意味が間違っているのを理解した上で使いたくなるような優しさだった。
初鹿さんが来てから、私は、頭の中でよく整理もされていない言葉を、ただがむしゃらにはき出した。それは、頭の中だけにその思考を止めておくのを、怖がったようにも思えた。
正直、自分のことながら、今の私の思考がろくな状態でないことはよく分かっていたので、初鹿さんにまとめてもらうのは、都合が良かった。
「ええと、ランちゃんが浩之さんといちゃいちゃしていたのを、来栖川さんに目撃されて、彼女からちくちくと視線で攻撃された、と」
「違います」
いくら混乱してもそれが違うことぐらいは分かる。
「あ、ランちゃんの場合なら、いちゃいちゃしているよりも、初々しく浩之さんと頬を染めてもじもじしている方が、らしいし絵になりますね」
全然違う。
頭の中でもつっこむぐらい全然違う。
「……初鹿さん、私は真面目なんですが」
「もう、初鹿ちゃんが真面目なのは、よくわかってますよ?」
いや、そいうことを言いたい訳ではない。
まあ、その点については、初鹿さんは当然理解しているだろう。単に、私がいつも通り、初鹿さんにからかわれているだけだ。
たまったものではないけれど、ただ、今この瞬間だけは、いつも通り、という初鹿さんの態度は、私にはありがたかった。
「冗談はいいです。言ったように、私は真面目に言っています」
「わかっていますよ。もちろん、初鹿ちゃんが、ではなくて、初鹿ちゃんの話す内容が、という意味で」
だったら、最初からからかわなくてもいいだろうに。それとも、私の気持ちが少しでも落ち着くことを狙って、そこまで計算して会話をしているのだろうか?
……正直、分からない。初鹿さんは、私の理解を超える。異質、というのでは、ないのだろうけれど、初鹿さんの方が、より上位にあるように感じる。
「とは言ってみたものの……私も、そんなに理解できているとは言い難いですね」
「すみません、説明下手で」
「ああ、そういう意味ではなくて。ランちゃんの主観が混じった客観は、ちゃんとそれなりに理解していますよ。ただ、その状態が理解できないと言えばいいのかしら」
初鹿さんの言っている言葉は、私の頭にちゃんと単語として入って来なかった。それは私がぼうっとしているのではなくて、ただ頭が悪いだけだろう。
私の理解不能、という感想が、よほど表情に出ていたのだろう。初鹿さんは優しく、そして楽しそうに笑う。
「ちゃんと整理しましょう。まず、ランちゃん達が練習、組み手と言うんですね、をしていた、と」
「正確には、浩之先輩とヨシエさんが組み手をしていました。私と松原さんは見学していただけです」
「なるほど。そこに、来栖川さんが来たんですね?」
「それも、違うような気がします。あの中の誰も、最初はそれが来栖川……さんだとは思わなかったと、いえ、ヨシエさんは、もしかしたらすぐに気付いたのかもしれません」
あのとき、ヨシエさんだけは、恐怖ですくむ、または構える中で、一人その危険に向かって動いていた。それは、最初から相手が来栖川綾香だと知っていたからだろう。
正直、気付いていなかったというのなら、ヨシエさんの行動は、私の理解できない異常な行動と言わざるを得ない。
「そこまではいいです。でも、その後、いえ、そのとき、と言った方が正しいような気がしますね。そのとき、来栖川さんが、浩之さんを殺意のある目で睨んだ、というのが」
「……」
それが、理解できないらしい。
よく分かる。私だって、横で聞いていれば、この女は何漫画のような非常識なことを言っているのか、と思ったろう。
そもそも、殺気や殺意が外から感じられる自体が、うさんくさい。
私のような年齢は、得てしてそんな目に見えないものなどに惹かれるものらしいが、私にはそんな気は毛頭ない。
でも、あれは、あのときあの場所にいたなら、誰でも感じたはずのもの。
原始の恐怖。存在を消される、という、生物には耐え難い、危機。
それが、私の口から出ると、何と陳腐になることか。
思わず、初鹿さんに助けを求めてしまったけれども、あそこにいなかった人間に、このことを言っても、理解してもらえないのを、今更私は気付いてしまった。
「……すみません、自分でも、うまく言えません。戯言と思って、帰ってくれてもかまいません」
「そう言われると、私も帰り辛いですよ」
そう言って、しかし、初鹿さんにはまったく私を責める様子はなかった。
「それを、浩之さんに警告したのに、浩之さんは鼻で笑った、と」
「鼻で笑ったと言うよりも、あれは……嬉しそうでした」
それでも会話を続けてくれる初鹿さんに心の中で感謝しながら、私は続ける。
「浩之先輩は、私の忠告を聞いてくれませんでした。だから、私は私に出来ることをしたいんです」
「つまり、来栖川さんの魔の手から、浩之さんを守りたいということですね?」
「平たく言い過ぎな気もしますが、そうです」
そして、私は唇をかんだ。
「でも、私ができることは、格闘技だけで、その点に関してすら、来栖川……さんにはまったく歯が立ちません」
むしろ、その点だからこそ、とも言える。もっと他の点で比べたところで、まったく相手にはなっていないが、格闘技ほど差はないようにすら思えるのだ。
「ん〜」
初鹿さんは、少し首をかしげて、何か考えて。
「私には、正直よくわかりませんし、その状況が、酷い言い方ですけど、ランちゃんの主観によるもので、実態は全然違うのではないかと思いますが」
そう前置きをしてから。何の躊躇もこだわりもわだかまりもなく、初鹿さんは、私に言ったのだ。
「負けたくないなら、武器を使ったらどうでしょう?」
続く