「ぶほっ!」
とても格好悪い声を出しながら、健介の身体が大きくはね飛ばされる。大したこともないのに、何大げさにしているのだか、という顔で苦笑した坂下が、先ほど健介をはね飛ばした足刀蹴りを放った脚を下ろす。
ごろごろと転げ回った結果、べち、と壁にぶつかって、健介は動きを止めた。
死んだか、と部員達が、恐る恐る健介をのぞき込む。
「っの野郎!!」
しかし、健介はブリッジの力で身体を跳ねて、元気に立ち上がる。
「逃げるのうまくなったね、健介。ついでに、私は野郎じゃないよ」
坂下の足刀蹴りの直撃を受けてすぐに立ち上がれる訳がない。健介は、後ろに飛んでダメージを殺したのだ。とは言え、勢いを殺しきれずに、転がって壁にぶつかるという醜態をさらしてしまった訳だが、今更健介の醜態の一つや二つで、部員も驚いたりしない。
「黙れ、この男女!! いい気になって人をぽんぽんと蹴り飛ばしやがって!!」
「何だ、拳の方が良かった?」
そう言って、坂下はグローブを外そうとする。それには、いかな健介と言え、そのまま強がってはいられなかった。
「い、いや、まあ待て。てか、ここで俺を亡き者にするつもりか、てめえ」
「いいから、せっかく相手してやってるんだから、もっと真面目にしな。空手は礼に始まって礼に終わるんだよ」
まだ何か言い足そうだったが、坂下に睨まれ、健介はすごすごと引き下がった。健介のふがいなさを責めるよりは、坂下の迫力を誉めるべきだろう。
健介は、組み手と言っても、ほとんど試合形式で戦っている。しかも、寸止めなしだ。坂下も、さすがに抜き身の拳では危ないと思って、わざわざ大きめのグローブをはめているのだ。
もっとも、このグローブ、健介のプライドを余計にズタズタにしているのだが、そもそも、健介にプライドが残っているのかどうかも怪しい。
昨日よりは精神的に落ち着いたのか、坂下は、手加減して健介の相手が出来ているようだった。それでも、あっさりと健介が負けているあたりで、実力の差が分かろうというものだ。
ビシッ!!
「ぐっ!!」
健介のストレートが当たるよりも速く、坂下のローキックが入り、がくっ、と健介の膝が落ちる。
太ももにローキックが決まれば、根性でどうこうできるものではない。試合ならば間違いなくKOだ。坂下の一撃なら、なおさらのこと。
「今日はここまでだね」
膝を落としたまま、立ち上がれない健介を上から見下ろすようにして、坂下が言う。
「くっ、待ってろ、すぐ立ち上がる……」
意識ははっきりしているし、やる気もあるのだろうが、いかんせん、ダメージは大き過ぎる。回復するまでは、その脚は動かないだろう。
「その強がる根性は認めてやってもいいけど……」
坂下は、他の部員達を見回す。健介が戦闘不能になったのを、手ぐすね引いて待っていた田辺と目が合うが、坂下はわざとそれを無視した。
「ラン、ちょっとこいつ、外でアイシングしてやって」
「へ?!」
驚いたのは、自分の役目だと思っていた田辺だ。ランの方が、何を言われているのか、まだ理解していないようだった。
「ち、ちょっと待って下さい、先輩。それは私の役目……」
「最近、いつも田辺にやらしているからね。雑用は公平に振り分けた方がいいだろ?」
「いや、雑用って、そりゃ雑用ですけど……」
田辺も、確かに今まで自分がやっていた仕事だが、どうしても田辺がしなければならない理由が思いつかず、まごまごとしている。
「田辺、最近、集中できてないようだから、丁度いい。私が少し相手するよ」
「え?! いや、本気で勘弁して欲しいんですけど……」
思い当たるふしもあるのだろう。しかし、まさか自分が標的にされるとは、ついぞ思っていなかったようで、かなり慌てている。
「ランも! どうも集中できてないようだからね。少し頭冷やして来な」
「……押忍」
そう言われて、ランは一瞬、顔色が変わるが、すぐにポーカーフェイスを決め込む。
「ほら、田辺。ちゃんと手加減はするから、安心していいよ」
「そんな、健介のバカならともかく、私手加減されても殴られたら死んじゃいますよ!!」
色々と不満どころか、身の危険まである田辺は、何とか抵抗しようとしたようだが、結局、坂下から逃れられる訳もなく、健介にまでかわいそうに、という顔で見られている。
「あ、こら健介、最下層の癖に私に同情できる立場とでも……ちょ、先輩、マジで構えてませんか。いや、私、単なる女子高生なんで、本気で死んじゃいますよ?」
ランは、あせる田辺を置いて、健介に肩を貸して、水道のある場所まで健介を連れて行く。
「へ、いい気味だぜ。つっても、坂下の野郎なら、ちゃんと手加減ぐらいはするだろうけどな」
いつもいじられていることに対するものだろう、健介がにやりとしながらそうつぶやくが、後半を聞くと、少しは心配しているようである。それとも、坂下に全面の信頼を置いているのか。
水道のところまで連れて来られてから、健介は、初めて自分に肩を貸すランに目をやった。というより、会ってから、初めてランを見た、と言ってもいいかもしれない。
「そういや、お前もマスカの選手なんだってな」
「……そっちよりも順位はかなり低いけどね」
ランも、口調がきつくなっている自覚はあった。しかし、仲も良くない、年上でもない、尊敬すべき点もない相手に、敬語を使う気にはなれなかった。
空手部の健介であろうと、マスカのビレンであろうと、ランには仲良くなろうなどという気はない。しかし、不思議と、肩を貸すことには嫌悪感はなかった。
しかし、健介は、それに気を悪くした様子はなかった。
「ま、女だてらにマスカに入れるんだ。それでも十分凄えだろ。上位にも三人しか……いや、坂下の野郎もいるということは、女も侮れないのか?」
何故かランを擁護するようなことを言おうとして、それに失敗している。ただ、何故か悪意が感じられない。正直、ランとしては拍子抜けだった。
ランも、悪意がない相手には、さすがに悪感情を向けることはできなかった。
「ヨシエさんと比べるのがそもそも間違ってる。ビレン……健介だって、それは良く分かってるでしょ?」
「ああ、嫌ってほどな」
呼ばれ方には、何のこだわりもないようだった。言い直したランに、一言すら文句を言わない。
健介とランの関わりは、マスカ、というものがあるだけで、後は何もないはずだった。だから、正直、ランは健介との距離が、案外近いことに驚いていた。
そして、近しいと思うと、口も軽くなる。
「健介、私が言っていいことじゃないかもしれないけど……」
「ん?」
「田辺さん、泣かしたら許さないからね」
「ぶはっっ!?」
水を飲もうとしていた健介は、坂下から足刀を喰らったときよりも派手な声を上げて、吹き出した。
「げほっ、ごほっ、て、てめえ、いきなり何を……」
ランは、まったく健介の方を見ない。健介も、その話題をそのまま続けられても困ると思ったのだろう、それについては何も言わなかった。
「……あーあ、こりゃ見事にあざになってんな」
多少わざとらしかったが、健介は、道着をめくって、太ももを冷やしだした。
「これは与太話だけど」
「うっ、な、何だよ」
さっきのことがあったからだろう、健介は警戒しているようだった。
しかし、その健介の様子を、ランはまったく見ていなかった。
「ヨシエさん……と同じぐらいの実力の相手に、どんな手を使ってもいいから、あんた、勝てる?」
続く