フルフェイスのヘルメットを被った、ライダースーツの女。
しかし、バイクに乗って現れた訳でもないし、バイクを近くに置いている訳でもない。こんな人気のない場所に、ライダースーツで歩いてくる状況がありえない。
可能のある状況。路駐してて、駐車違反でレッカーされた。
普通ならば、その可能性は否定できない。しかし、綾香に近付いてくる、というのなら、話は大きく違って来る。
そもそも、いつ近付いて来たのか、綾香すら確かにはわからないぐらいなのだ。一般人ということはなかろう。
アリゲーターが制裁を受けてから、マスカレイドからのちょっかいがすっぱりと無くなったことを、綾香は多少なりとも残念に思っていた。
だから、この少し異常な空間は、むしろ望むところだった。
綾香がそちらを注目しているというのに、ライダースーツの女は、まるで綾香が目に入っていないように、変わらず近付いて来る。そちらには、目標になるようなものは綾香しかないというのに。
フルフェイスのヘルメットは、全体に黒く、綾香からは向こうの視線を見ることは出来ないが、綾香に向いているのには、感じていた。
綾香の見たところ、ライダースーツの女は、よく鍛えてある身体だ。
身長こそ、高いという訳ではないが、綾香と同じぐらいはあるし、身体にフィットしたライダースーツの身体は、スラッとしているのに、厚みを感じる。
綾香は、すぐにその違和感を感じ、まだ手どころか声すら届きにくいところにいるライダースーツの女を分析する。
……芯は細いみたいだけど……防具?
ライダースーツは、身体にフィットしているが、しかし、部分的に、明らかに太い。着ている人間が太いのではなく、ライダースーツ自体に、思ったよりも厚みがあるのだ。
綾香は、ライダースーツなど着たことがないので、確かなことは言えないが、ただのライダースーツではない、というのは間違いなさそうだった。
よく見ると、ヘルメットとライダースーツの間も、半分つながっているように見える。どうやって外すのか、見ては分からないぐらいだ。バイクでこけたときに頭部を守るためだけのものとは、とても思えない。
歩く姿にも、まったくと言っていいほど、動きにくい様子もない。本格的に防具として、スーツを開発したとしか思えない。
これはいよいよ、大物がかかったかな?
こんなものを作るのには、趣味だけでは無理だ。それなりのお金と熱意をつぎ込まなければならない。そしてそれだけをする人間が、弱いとは思えない。
まあ、綾香が強い弱いを判断しているのは、近付いてくるだけの、洗練された動きに、なのだが。
ライダースーツの女は、まだ遠い位置で立ち止まった。顔は隠れているので、目が綾香を向いているかどうかは分からない。
でも、これで人違いでした、ってのはなさそうだけど。
「私に、何かご用?」
もう聞くまでもないだろう。綾香に用事があるのは、ナンパかケンカか、その二つしかないのだ。まあ、ナンパだろうが路上アンケートだろうが、今の綾香に声をかける度胸などありはしないだろうが。
ケンカを売ろうという相手ですら、二の足を踏むようなプレッシャーなのだ。足が止まっても仕方ない。
……とは、綾香は思わなかった。
この姿に、具体的に思い当たるふしは、綾香にはない。たまたま、というだけなのだが、綾香には、ソレの話が届いていなかったのだ。
そのどちらも知っている浩之からも、その話が届かなかったのは、むしろ浩之の、あまり関わり合いにさせるべきでない、という気持ちが関係しない、とは言い切れない。
しかし、浩之はこうも考えるべきだったろう。知っていれば、不意打ちをされる可能性も減る、ということを。
ライダースーツの女が、地面を蹴る。
遠い、綾香はそう判断しながらも、その腕の動きに反応して、スウェイ、というよりもブリッジほどものけぞりながら、迫って着たそれを避ける。
シュバッ!!
綾香ですら届かない距離をものともせず、綾香のあごのあった位置を、それは通過していた。
普通なら、そのままバク転の要領で相手を蹴り上げるか、地面に手をついてそこを支点に蹴り上げるか、色々と攻撃方法はあっただろうが、距離が遠すぎたことと、さらに来るだろう二撃目のことを考えて、綾香はそのまま、倒れる。
身体を横にひねりながらも、足を地面から離さない。そして、手が地面をつくと同時に、そこを支点にして地面を蹴る。
ザンッ!!
綾香の足が離れたと同時に、その足を狙って放たれた二撃目のそれが、地面を削る。
バク転をしていれば、飛び退く距離が短くなり、二撃目に捉えられていただろう。綾香はそれを見誤らずに、倒れることによって距離を稼ぎ、それにすら対応して、残った足の部分を狙った攻撃を、片手を支点にすることによって地面すれすれを後転し、逃れたのだ。
避けた後の綾香の動きは、素早かった。身体を地面につかずに後転をすると、片手を支点にしたまま、素早く立ち上がったのだ。
だが、それ以上は後ろに離れたりもしない。後退する時間すら、この相手には与えるのはまずい、と感じたのだ。
じゃらり、と、ライダースーツの女の手にしていた獲物が、音を立てた。
この私が、今の今まで気付けなかった、ううん、うまく隠してたって、ことか。
綾香に、反撃さえ許さずに、細心の注意さえさせて回避させた武器、鎖だ。持っているのを、攻撃するまで綾香に気付かせなかった。
綾香の目が節穴、だったなどとは誰も言うまい。音すらたてずに、決して細くないそれを、手の平の中に隠していたのだ。
人間相手に傷を負わせるだけではなく、地面を削るほどの質量を生む太さはある。よくもまあ、そんなものを今まで隠せたものだ、と綾香は思った。
おそらく、近付いてくる姿が洗練されたように見えたのは、そのため。手の動きだけではなく、身体全体で、鎖が音をたてるのを隠していたのだ。
もし、浩之か坂下、可能性は低いが、ランでもいい、誰かがそれを教えていれば、少なくとも不意打ちにはならなかった。鎖を隠していたとしても、まったくの無駄になったろう。
だが、綾香に話は伝わらなかったし、何より、それでも、綾香は不意打ちだろうが何だろうが、相手の攻撃を避けきったのだ。
鎖、鎖、チェーン、ねえ。そんな武器を使う人間、いるんだ。
綾香の武器に関する感想は、そんなものだった。その黒光りする鎖は、まだ明るいのに、人に与える恐怖感、という点においてはかなり高いだろうに、綾香にとってみれば、それは別段、問題にするような内容でもなかった。
全身を覆うライダースーツの女にいきなり襲われても、まったく動じることがない。そちらの方が、考えようによっては異常かもしれない。
「えらい挨拶ね。別に襲うな、とは言わないけど、名前ぐらい名乗ったらどう?」
襲うな、と言うのが正しい方向なのだろうが、綾香には関係ない。もしかしたら、綾香にとっては、襲われる方が正しいのかもしれない。
そして、相手は、それに律儀に答えた。襲うのではなく、名乗る方向で。
声は、くぐもっていたし、何か仕掛けがあるのか、誰か分からないように変調してあった。
が、綾香は知らないことだが、マスカレイドでは、彼女は一度として声を発したことはなかったのだ。
「チェーンソー」
と、短く、その女は、名乗った。
続く