細胞が、一つ一つ活性化していくのを、綾香は感じていた。
綾香は、準備運動なしでも、かなりのところ動けるが、やはり、肉体はそうでも、精神的に乗ってくるのとそうでないのとでは、おのずと出せる力も違って来る。
綾香が最近受けたダメージは、盛り上がって来る前が多い。完全に精神的にもりあがってしまえば、後は一方的だが、自分のその甘さを、綾香は良しとしていない。
しかし、今回は、気分の高揚が早かった。綾香の、努力とも言えない努力が実を結んだのか、それとも。
目の前の相手が、強制的に綾香を高揚させるほどの、強さを秘めているのか。
おそらくは、後者。
まあ、綾香が意識している以上、多少なりは綾香の悪癖も治っているだろうが、そういうものがなくとも、同じように綾香は高揚していただろう。
それだけに、おしい、と綾香は思う。
あまりにおしい。そう考えた綾香は、知り合いが聞けば、あまりのショックに卒倒するのでは、という提案を出した。
「……ねえ、正直、このまま行くところまで行きたいんだけど、一時、中断しない?」
これだけの相手を前にして、しかも、足を引っ張る人間だとか、邪魔をするセバスチャンだとかもいない、この千載一遇の時。それを、自分からフイにする。
葵なら絶句し、坂下ならまた何か企んでいるのだろうと邪推し、浩之ならそれをつっこんで綾香に殴られかねない。
ある意味奇跡にも近いことが起こったことに、気付いているのかそうでないのか、チェーンソーの方は無言。ただし、攻撃はして来ない。
綾香は、それを一時停戦の肯定と受けて、構えを解いた。
もっとも、綾香ほどになれば、例え構えを解いていようが、十分な動きができるのだが。それでも、これだけの実力者相手に構えを解くというのは、それなりの説得力はあった。
チェーンソーの方も、最低、話は聞く気になったのか、腕を下ろす。しかし、さっきの動きを見る限り、腕を下ろした体勢からでも、十分鎖は威力を発揮できるだろう。
「とりあえず、このスカート、高いんだけど、これは水に流してあげる」
学校の制服というのは、無駄に高い。そして、女子の服は何故か男よりも高く、さらに言えば、寺女の制服はもっと高い。スカート一枚で、一日かなりリッチに遊べるぐらいだ。というか、浩之の何ヶ月分の生活費なのか、浩之が考えれば泣き出すだろう。もしかすると、スカートに熱い視線を向けて綾香に蹴られるかもしれない。
まあ、そんなことは良いとして、金額的にいえばけっこうな額になる。しかし、それぐらいは許さないと、話が進まないし、綾香にとっては、大した額でもないので問題ない。
何せ綾香は、無駄遣いが好きなタイプではないのに、かなりの額を毎月かせいでいるのだ。昔はお小遣いをもらっていたものだが、今は取材などで定期的にお金が入っているし、そもそもエクストリームの優勝賞金は高校生の持つべき額ではない。
そんなお金の管理を、弁護士を使って、綾香は自分で管理している。親に管理してもらうなどということをするには、綾香の家は資産家過ぎるのだ。
さらに、実を言うと、マスカレイドでもかなりの額をもらっている。綾香としてははした金だが、マスカレイドで戦っている選手にとってみれば、かなりの額のはずだ。
とにかく、そんなはした金のことで綾香は会話を止めたくはなかった。
「一応、私ってプロなのよ。分かるわよね?」
エクストリームチャンピオン。稼いだ賞金を考えれば、十分にプロと言っていいだろう。金銭管理も自分でやっているのだから、選挙権がないからと言って侮ってはいけない。
チェーンソーに反応はない。反応がないのは、肯定の意味だ、と綾香は勝手に判断することにした。
「私とあんた、チェーンソーとか言ったわね、私達二人が、誰も見ていない、こんなところで戦うの、もったいないと思わない?」
と、綾香は少し考えてから。
「まあ、もったいないというのは本気だけど、こんなところ、って言うのは撤回させてもらっとくわね」
誰もいない、というのは事実だが、決して綾香にとって、ここは軽い場所ではない。はっきり言ってしまえば、かなり重要だ。
浩之との、思い出の場所なのだから。
思い出の場所が、格闘技の勝負、というのが、あまりにも色気のない話ではあるのだが。
チェーンソーも、綾香が何を言いたいのか、察したようだ。
つまり、知ったことか、と歩を進めようとしたのだ。
綾香の事情など、チェーンソーには知ったことではない。誰もいない場所で襲ってくるということは、それなりの目的があってなのだから。それが、ただ綾香を倒したいのか、他の理由によるものなのかは別にしても、だ。
綾香は、それを手で制す。まだ、話は終わっていないのだ。
「それだけ強いんだから、マスカレイドで、まだ戦っていない、一位か二位、ってことでしょ?」
それを聞いて、チェーンソーは、すっ、と腕をあげて、人差し指を立てた。
1。
「一位……ね。ま、それぐらいじゃないと……私を楽しませるのは、無理だと思ってたわよ」
これで、チェーンソーが二位だ、などと聞いたら、歓びにどうにかなってしまいそうだ。この女を倒しても、まだ先がいるなんて、それが嘘であることを知っているにも関わらず、考えるだけで、身体がうずうずすしてしまうのだから。
そして、二位なら、ここで、と考えたかもしれない。しかし、一位である以上、綾香は、もったいないと考える。
「じゃあ、いいじゃない。私は、絶対に一位に挑戦するんだし」
はっきりと、綾香は言い切った。後、何回戦ったら一位と戦うことになるのかわからないが、そんなことは、問題にすらならない。
綾香は負けないし、この一位の、チェーンソーも負けない。
「……」
無言のまま、チェーンソーは歩みを止めた。チェーンソーも、何かしら考えることがあったのだろう。その、人物が判断できそうにない声で、短く言う。
「マスカ以外で、戦うな」
「は?」
「……」
チェーンソーは、また黙る。それ以上の説明はするつもりはないようだ。代わりに、綾香が、ふふん、と鼻で笑った。
「ふーん、ずいぶん、独占欲が強いのね」
返事は無言。だから、綾香は相変わらず肯定と受け取ったし、はっきり言って否定であったとしても、知ったことではない。
「向こうがケンカ売って来たときはやるけど、いいわよ。私からは仕掛けないし、わざわざ向こうに仕掛けさせるようなこともしないわ」
今度は、チェーンソーは首を縦に小さく動かした。これは肯定。
「じゃあ、今回は下がってくれるってことね」
綾香は、もちろん握手を求めたりはしなかった。お互い、相手の手をつかめば、ただでは済まさないつもりなのだから、わざわざ自分の希望を台無しにするようなことをする必要はなかろう。
ジャッ!
チェーンソーが、いきなり腕を振るう。が、綾香はまったく慌てなかった。それは正解で、器用に鎖がチェーンソーの腕に腕に巻き付く。
チェーンソーはチェーンソーで、あっさり背を向けて歩き出す。
お互い、隙だらけにすら見える。が、お互いに、今はないと思っているのだろうし、もし、今この瞬間戦いが始まっても、まったく問題ないと、やはりお互いに考えているのだろう。
綾香は、同じようにチェーンソーに背を向けながら、チェーンソーに聞こえるのかどうかなど気にせずに、言う。
「本当、こんな、浩之もいないような所で、やるのは、もったいないわね」
結局、綾香が戦いを先に延ばした理由は、そんな、単純な、理由にもなっていない、しかし、ある意味、一番重い、そんな理由だった。
続く