田辺は、まだ試合が始まっていないどころか、選手も出て来ていないのに鳴り響く、大きすぎる歓声に、耳を押さえた。
「ねえ、うるさいんだけど!!」
歓声に負けないようにするには、どうしても声が大きくなる。横にいる健介に話しかけるだけでも怒鳴らないと駄目なぐらいに、うるさい。
「俺に言われても、知るか!!」
自分が悪くない、とはっきり表情に出す健介に、田辺はむっとして、とりあえず足を踏んでおいた。
「痛、てめえ、何しやがる!!」
「あ〜ら、ごめんあそばせ!! 人混みで体勢崩しちゃた!!」
とは言ったものの、言うほどの人混みではない。少なくとも、ラッシュ時の電車に比べれば大したことはなく、全員が座れるだけのスペースはある。
ただ、座る席があるわけでもないし、この熱気から言って、席があっても、座る者はいないかもしれない。
「ちっ!!」
健介は、この歓声の中でもちゃんと聞こえるように舌打ちをして、しかし、田辺にはわからないように、テンションのあがった観客から、田辺をガードしている。
ひょい、と田辺は、健介に顔を近づける。正直、恋人同士でもないのに、それは近づけ過ぎだろ、というほど近い。
「な、何だよ」
健介は、むしろこっちが純真な少女なのでは、というほどに慌てるが、田辺の方は、それを見て笑う余裕すらある。
「こうしないと声が届かないでしょ。それとも、他に何か理由が必要なの?」
にんまり、と笑われて、健介はしまった、と思ったが、何とかそれを表情からは隠す。最近は自分のヒエラルキーが落ちっぱなしなのに、正直納得がいかないものがあるが、余計に順位を落とすような行為は避けたいのだ。
しかし、二人よりそうように近付いたことで、何とか普通の大きさでも、会話が成り立つようになった。
「でも、凄い人よね。何しに来てるんだろうね?」
「試合観に来てるに決まってるだろ」
「学校の関係とか、親類が多いとか?」
「……激しく違う」
健介は、薄々気付いていたが、これで確定した。
「お前、これがどれぐらい凄い試合かわかってねえだろ?」
「素人同士の試合でしょ? 空手の試合にも劣ると思うけど」
「おいおい、こんな素人さん連れて来ちまったのかよ……」
マスカレイドで、十何位にいる健介、ビレンは当然、マスカレイドの凄さをよく分かっている。空手でも、坂下のような人間がいるのを知ってはしまったが、それが一般的ではないことは理解している。
そして、マスカレイドを知らない人間を、ここに連れて来た自分の人選ミスについても、よくわかっている。
それにしたって、一位の試合だ。健介だって、生で観るのは初めてなのだ。このチケットを手に入れるのに、どれほど健介が苦労したか。
ただ、そんなことを言えば、田辺が「けちくさいこと言うな」と言ってくるのは目に見えていたので、黙っているのだが、健介の我慢というのは、そんなに大きいものではないので、ついつい、ぼそっと気持ちが口に出る。
「これなら、坂下でも誘うんだったぜ」
ちなみに、最初はそのつもりだったのだが、結局誘えなかったのは、自分のプライドを優先して、健介の中ではなかったことにしてある。
ドスッ!!
「うぐっ!!」
何の前触れもなく、健介の鳩尾に強い衝撃が走る。
「何か言った?」
さっきまでの、不満は顔に出すものの、おおむね機嫌の良かった田辺だったが、傷みをこらえて横を見て、健介もさすがに恐怖に顔をひきつらせた。
田辺は、笑っているが、目がまったく笑っていない。声も、氷点下というか、絶対零度だ。
しかし、それはそれとして、健介に一撃でここまでダメージを当てる田辺も、一般人、単なる女子高生と言っているわりには、なかなか。
もちろん、ポピュラーな人体急所、水月に、健介がまったく腹筋に力を入れていないときに、至近距離で放った一撃だからこそ、というのもあるが。
さ、さすがに田辺にKOされたら、俺立ち直れないかも……
マスカレイド十五位、ビレン。運と、これからの努力如何によっては、マスカレイドで一桁代の順位になるのも不可能でない位置にいるはずのがらの悪い少年。それが、女子高生に毛が生えた程度の田辺にあわやKO。
かくも、人間関係のヒエラルキーの特殊効果は怖ろしいものなのだ。ひらたく言うとトラウマとも言える。
健介は、自分の正体を隠して戦っている方なので、観客も、カップルがちちくりあっている程度にしか思っていなかっただろうが、もう少しでマスカレイドの威厳も何もあったものではなかったのを、何とか回避できたことを感謝すべきだろう。
まあ、不用意なことを言った健介の自業自得とも言える。どう悪かったのかなど、健介にはわからないだろうが。
「てめえ、後でおぼえとけよ」
「あんたにしてみれば、忘れたいことだと思うけど?」
確かに、田辺への何かしらの敵対行動は、直接坂下の手で健介に叩き込まれることが多いので、正直健介の旗色の方が非常に悪い。
「それにしても」
健介の窮地を救った、いや、そもそもそんなに追いつめていたなど知らない田辺は、話を変える。
「ちょっと、男臭くない?」
それは、空手部という汗くさい、というか運動部はだいたいどこも汗くさいのだが、部活に入っている田辺だが、男が沢山集まっているこの状況は、臭いが、というよりは、雰囲気が、男臭いと感じたのだ。
マスカレイドのファンは、思った以上に、女性の割合は多い。ビレンとしてなら、少数ながらも、女の子のファンがいるぐらいだ。
だが、今日は男の割合が多い。むしろ、女性は数えるぐらいだ。
「あー、そう言えば、今日の相手は……」
健介は、そこで黙った。何とか、動揺を顔に出さないようにしながらも、背中に嫌な汗が出るのを感じていた。
「今日の相手は?」
今回は、田辺の方には悪気はないのだろうが、しかし、それが健介を窮地においやっている言葉なのは、間違いない。
やべ、今日の相手まで、深く考えてなかったが、これは、まずい。
ただでさえ手に入り難い上位同士の試合。しかも一位の、さらに、男にはかなり人気のイチモンジの試合のチケットを、何故かこういうときだけ手に入れてしまう健介は、運がいいのか悪いのか悪いと断定できる。幸い中の絶不幸、というところか。
健介が、一体どうやって話をそらそうか、と考えていたときに、いきなり、歓声をかきけすほどの声が、響いた。
「ながらくお待たせいたしました!!」
いつの間にか、赤目が、試合場に立っていた。
それで、さっきの様子から見れば、驚くほど静まる観客達。
しかし、それは処刑のカウントダウンにしか、健介には聞こえなかった。
続く