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最強格闘王女伝説綾香

 

五章・実戦(226)

 

 イチモンジは、先手を許した状況になってしまったが、しかし、何も出来ないまま、それを許した訳ではなかった。

 対峙していたときと比べて、わずか数センチ、イチモンジは後ろに下がる。

 イチモンジの剣をはじき飛ばしさえすれば、チェーンソーの勝ちは揺るぎない。よって、先ほどの一撃は、リーチ一杯、少なくとも、イチモンジの剣をたたき落とすには、限界ギリギリまで距離を伸ばしたはずである。

 当てれば勝てる状況で、わざとリーチを縮める理由はない。よって、イチモンジに間合いを計らせないための布石とは考えにくい。

 つまり、それがチェーンソーのリーチだ。

 だから、イチモンジは数センチだけ下がる。これで、剣にもイチモンジの身にも、鎖はかすりさえしない。そのためには、もう一歩踏み込んでくる必要がある。

 僅か数センチ、しかし、武器を持ち戦う人間にしてみれば、その数センチが、勝敗を、いや、生死を分けるのだ。

 自分の間合いを熟知しているであろうチェーンソーのみが気付く、まわりから見れば些細な変化。それが、イチモンジの本当の一手目だった。

 そして、次は、観客から見れば一手目、本当は二手目を、イチモンジが狙う。

 武器の長さがルールで決まっているので、イチモンジの剣は、剣としては長くなく、イチモンジはそれを片手で構えていた。

 普通の格闘家とは違って、右半身で、そして前に出た右手には、剣という武器を持つ。

 打撃系の格闘家が左半身に構えるのは、奥にある右半分に、助走距離を与え、より威力の高い一撃を発する為である。

 武器を持った人間には、まず必要のない構えだ。武器は、もっと簡単に、十分な威力を発揮する。

 それよりは、武器がより遠くに届く様に、武器を持つ手を前に出す。武器を持っていることを隠す場合や、距離を掴ませないために居合いのように、いきなり抜刀したと同時に斬りつける、というようなこともあるが、むしろそちら側の方がまれなのだ。

 その前に構えた剣を、肘を曲げてイチモンジは身体に近づけると、左手の上に乗せた。

 せっかく前に出していた剣を引くにも、もちろん意味がある。武器には、正しい使い方ならば、そこまで力は必要ない。そのかわり、スピードが命となる。

 外から内への動きと、内から外への動きの違い。それが、イチモンジの構えを説明できる。

 外から内への動きは、人間の身体の構造上、パワーが入り易い。腕が内にたたまれるようにできているから、引く力の方が有利なのだ。

 反対に、同じく身体の構造上、内から外への動きは、スピードが速い。ジャブやストレート、裏拳などはその部類に入る。手首のスナップの関係もあるので、少林寺拳法の目打ちなどは、内から外への動きをする。

 まあ、武器を使うのに、手首のスナップなど使っていたら、素人でなくとも一発で手首が駄目になるだろうが、使い方がうまければ、スピードを上げるには効率が良い。

 つまり、今のイチモンジの構えは、力よりも速さを求めた構えなのだ。

 もっとも、そんなことは、それなりに自信を持って見ている健介も、そして、何がどうなっているのかわからない田辺にはなおさら、見ただけで理解できるものではないのだが。

 その構えのまま、お互いに、円を描くように、じりじりと動く。殺陣などでおなじみの光景だが、実際のところ、うかつに距離を縮められない以上、こういう動きになるのは当たり前なのだ。

「ただグルグル回ってるだけに見えるけどな、ありゃフェイントの応酬してるぜ」

 健介が、得意そうに解説をする。

 重心の動き、肩の動きや目線、呼吸、その他色々なもので、お互いに相手に先に手を出させようとしているのだ。

 万全の状態ならば、後の先を取った方が確実である。というよりも、このレベルでは、やぶれかぶれに攻撃しても、ただ負けるだけなのだ。

 健介がどちらかならば、フェイントというよりは、そのプレッシャーに負けて、先に手を出してしまいそうな場面だった。詳しいことは分からない田辺にすら、緊張感が移っているのだ。

 どう動く、と皆が見つめる中、とうとう、イチモンジが動いた。

 脇腹を締めた状態から、右肘が離れ、上に動いたのだ。左で剣の中腹を支えている状態なので、剣は上を向く。

 そして、放たれるのは、上からの、斬撃。

 しかし、この場合、先に動いた方が、完全に不利。チェーンソーは、その振り下ろされるであろう剣に向かって、左の鎖を横に一閃する。

 これが、もしイチモンジの獲物がもっと長いもので、両手で扱っていたのなら、チェーンソーは振り下ろされる剣に向かって自分の武器を振ったりはしなかったろう。

 剣道や剣術の怖い部分は、剣が放たれてからの変化にある。重いとは言え、西洋刀と比べれば明らかに軽い日本刀や、もとから軽い模造品である木刀や竹刀の切っ先は、振った後でも、両手で持つことにより、大きく変化する。

 片方の手を支点、片方の手を力点とすることにより、テコの原理で、わずかな動きでも、切っ先は大きく変化する。

 その点だけは、チェーンソーの鎖や、ギザギザが使用したトンファーの方が明らかに劣っている。

 武器を正面からぶつけようと鎖を振った場合、向こうの変化に、鎖の方はついていけない。その一撃から外して攻撃される可能性が高いのだ。

 しかし、片手で構えるイチモンジには、その怖さはほとんどない。それを事前に理解しているからこそ、チェーンソーは安心して、相手の武器に自分の武器をぶつけられるのだ。

 武器がぶつかれば、お互いに動きを止める。下手をすれば、どちらかが武器を取り落とすかもしれないが、手首に鎖を固定してあるチェーンソーは、武器を取り落とすことはない。そして、それで動きさえ止まれば、後は右腕で一方的にチェーンソーが攻撃できる。そのはずだった。

 そのはずだったのに、チェーンソーの左の鎖は、イチモンジの剣を、すり抜けて、空を切った。

 いや、鎖は、ただ空を切ったのだ。

 観客すら剣の幻を見、チェーンソーの左の鎖は、空を切った。

 その剣の幻分、いや、当たるはずだったものが当たらなかったことによって、チェーンソーの滑らかな動きが阻害される、

 イチモンジを仕留めるために構えてあった右の鎖を振るタイミングを逃したのか、それ以上に、身の危険を感じたのか、チェーンソーは後ろに跳ね飛ぶ。

 振り抜かれた左手の目前を、さらに身体を前に出し、距離をつめたイチモンジの左の剣が、捉え損なって空を切った。

 イチモンジは、武器ではなく、チェーンソーの腕を狙ったのだ。いかに鎖が手首に取り付けられているとしても、腕が使えなくなれば、それも無駄だ。イチモンジのさっきの一撃が入れば、骨折は確実、それを、イチモンジは何の躊躇もなく振り下ろしたのだ。

 チェーンソーは、避けるのには成功した。しかし、それはイチモンジが一方的に斬りつける格好となり、チェーンソーは、攻撃できない。

「……何、今の?」

「……すげえな、ありゃあ。俺でも、横から見てないとわからなかったぜ」

 田辺の疑問に、健介は、何と答えを持っていた。空手部では底辺、御木本の次という扱いでも、さすがはマスカレイドで十番台を取るケンカ屋である。

 しかし、理詰めで気付く者もいるだろう。あまりのインパクトに、状況をつかめていない者には、不可能だろうが。

 簡単……ではないものの、想像はできる範囲だ。右で構えたはずの剣が、左にあることさえ気付けば。

 

続く

 

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