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最強格闘王女伝説綾香

 

五章・実戦(240)

 

 二人が、一度距離を取る。こういう体勢になってしまった場合、どんな格闘技でも、相手の様子を見て膠着状態になることは多い。

 オリンピックの柔道で、攻撃しないと教育的指導を受けるのを見ても分かるように、ある一定以上のレベルになれば、攻撃を仕掛けるよりも、相手が攻撃するときに出来る隙をつく、いわゆる後の先を取る方が有利である。

 攻撃範囲が狭く、打撃に集中するボクシングなどでは、手を出した方が有利な場合もあるが、総合格闘では、なかなかそんなことは言っていられない。

 最低、組み技は相手が仕掛けて来たときこそ、一番のチャンスである。打撃のカウンターだってそうだ。威力だけではない、そこには明確に隙が生まれているからだ。

 だから、坂下とカリュウが距離を取って、その距離をつめずに、二人が円を描くように動き出したのを見て、誰しも、膠着状態になる、と思ったのだ。

 しかし、先に動く不利を知っているはずなのに、動いたのは、カリュウの方だった。

 実力で今のところ劣っているように見えるカリュウにしてみれば、攻撃で押し切る、というのはしごく当然の作戦ではあるが、それにしても、うかつだ。それが、かなり必殺であろう連携をあっさりと無効化された後となれば、なおさら。

 だが、カリュウはそれでも前に出た。

 今度は打撃の構えで、坂下に向かって素早く飛び込んでいく。その踏み込みの速さは、当然タックルだけに生かされる訳ではなく、打撃にも応用できる。

 それでも、真っ正面から向かえば、坂下に迎撃されるのは、火を見るより明らか、少なくとも浩之はそう確信さえ持っていた。

 バシィッ!!

 しかし、攻撃したのは、カリュウの方であり、坂下はその右のローキックを、膝を曲げてローキックを受けていた。坂下のガードは完璧で、ダメージはなかったろう。

 だが、同時に、坂下は反撃出来なかった。真正面に構えるのをやめて、普通に構えを取っていた坂下の、前に出た左脚のふとももを、カリュウは狙ったのだ。

 本当なら、その左は踏み込むために使われる脚だった。だから、防御にまわしてしまった分、カリュウに向かって距離を詰められなかった。それが坂下が防御に徹した理由であった。

 そして、浩之は完璧に忘れていたが、単純なリーチで言えば、坂下よりもカリュウの方が上なのだ。カリュウは男にしては細身ではあったが、手足は長い。それを有効に使えば、坂下よりも先に坂下に手足を届かせることぐらい。

 ぐらいは、出来るだろうか?

 ただ、リーチの長さにかまけて攻撃したのではない、と浩之は感じた。単純なリーチの差など、ちゃんと浩之の頭には入っていたはずなのだ。

 それを混乱させたのは、坂下の実力だ。なるほど、手足の長さは違うだろう。しかし、リーチは、何も手足の長さだけで決まるものではない。

 踏み込みの速さや身体の裁き方で、体格的に劣っていても、自分の打撃を届かせるのは不可能ではない。その実力の部分は、坂下はあまりにも高かったので、浩之はそれを込みで坂下のリーチを考えていたのだ。

 カリュウは、ちゃんと坂下の呼吸の裏、つまり隙をついて近付いた。それだけではなく、前に出てくるはずの脚を攻撃したのだ。

 防御にまわした脚を、すぐに移動に傾けても、さすがにカリュウの逃げる方が速い。何せ、カリュウは最初からロー一発で逃げるつもりなのだ。

 案の定、カリュウはすぐに距離を取っていた。出鼻ならる出足をくじかれた坂下は一気に距離を詰めるという愚作を選ばなかった。言ったように、単純な有利不利で言えば、迎撃する方が有利なのだ。ここで坂下が距離を詰めても、それはもうこちらから攻撃しているのと何ら変わりがない。

 地味だがえらく高等な攻防だった。ローキック一つでは、坂下は揺るぎもしないだろうが、それでも、カリュウが自分な有利なように状況を進めようとしている努力が伺える。

 何気ない攻防、と言ってもいい、一回交差し、ダメージもないような攻防だ。他の観客のほとんどは、その意味を、単なる様子見ぐらいにしか見ていないだろう。

 だが、坂下と何度も練習を繰り返して来た浩之には分かる。坂下に、一発牽制を打つのすら、かなり神経をすり減らすことを。

「へえ……」

 それが証拠に、綾香が嬉しそうに感心している。カリュウの度胸もそうだが、その技術に、けっこう舌をまいているのだ。

 見ている者を、不吉な気持ちにさせる、綺麗な笑み。それを、綾香はラン相手にはまったく使わないのに、カリュウには惜しみなく向けていた。

 ただ、俺の横で、そういう風に笑うのはやめて欲しいんだが。

 それがカリュウに向けられた嫉妬、という部分は、お前ほんとに綾香のことが好きなのか? と疑問に思うほど小さく、浩之の精神を占めているのは、大半は恐怖だったりする。

 これも、ひとえに綾香の日頃の行い、もとい、教育の結果だ。困ったものである。

 再度、カリュウは前に出る。しかし、一度やられれば、坂下だってそのタイミングは分かる。今度は、攻撃される前に前に出る。

 しかし、今度はカリュウの飛び込みが、短い。坂下は、それに一瞬で気付くと、さらに前に出ようとしたが、しかし、すでに遅かった。

 バシイッ!!

 一度目を巻き戻しているかのように、坂下がローキックをガードする。カリュウは、やはり同じようにすぐに距離を取っていた。

 結果、やはり坂下は無理な追撃をしなかった。二人の位置は多少変化したものの、まったく一度目と動きが変わっていない。

 うまい、と今度は浩之も心の中で感嘆していた。

 坂下は、本気で踏み込んだ訳ではない。ようするに、カリュウのローキックがぎりぎり届く距離からよりも、ちょっと距離を詰めれば良かったのだ。それだけでも、追撃するのは非常に簡単に行えるようになる。

 だが、カリュウはだからこそ、飛び込む距離を縮めた。まるで、坂下がその距離だけ前に出ると分かっているような、測ったのでは、と思うほどの絶妙な距離、前に出なかった。

 距離が一度目とまったく同じなら、坂下の選択に間違いがないとすれば、坂下は防御して、攻撃はしてこない。

 その距離の測り方は、まさに天才的を超えて、悪魔的であった。浩之でも、やっと距離がある程度つかめるようになって来たばかりだというのに、カリュウは、坂下の間合いを、熟知しているように測って動いた。

 ただ、おそらくは賭けだったはずなのだ。もし、坂下が待ち受けるのをやめて、全力で前に出て来たなら、カリュウは捉えられていた可能性は高い。

 距離のことも凄いとは思うが、その読みに比べれば、大したことのないことだ、と浩之は感じていた。その距離の読みが悪魔的と言うのなら、坂下の動きを読んだそれは、何と言うのだろう?

 悪魔的を超える表現を、浩之は、一つしか持っていない。そう、かの猛者達を呼ぶときに、つける、常套句。

 怪物的。

 ぶるり、と浩之は身震いした。坂下が、浩之とカリュウなら、カリュウが上と言ったこともあるが、しかし、もしその常套句をカリュウにつけるとなれば、話は違ってくる。

 比べるまでもない。怪物に、俺は勝てない。

 綾香や坂下と同じレベル? そんなもの、ほいほいとそこらへんにいる訳がないのだ。

 だが、綾香はカリュウにはしきりに感心していた。前に見たときは、綾香はここまでカリュウのことを評価していただろうか?

 実力を、隠していた?

 否、それは考えられない。カリュウは、ずっとマスカレイドで戦ってきた、と言っていた。ならば、隠す必要もない。全力で一位を狙えばいいのだ。

 もう一つ、それは浩之にも経験があるから分かることだが。それも、現実的に考えれば、おかしい。

 しかし、そのおかしなことを、浩之は一度自分の身を持って実戦している。ならば、カリュウが出来ない理由は、ない。

 ギザギザとぎりぎりの試合をし、それだけではなく、何度も何度も試合を続けることによって。

 カリュウは、成長しているのでは、という、非現実的な、しかし、浩之がいる以上、否定出来ない、可能性を、浩之は思いついてしまったのだ。

「やるわね」

 つぶやくような綾香の言葉が、浩之の耳に、突き刺さった。

 

続く

 

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