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最強格闘王女伝説綾香

 

五章・実戦(244)

 

 試合場の、ほぼ中央にあった坂下の身体が、たった一撃で端の方まで飛ばされる。

 金網には届かなかったものの、かなり近い場所まではね飛ばされた坂下の身体は、力なくその場に腰をついた。

 会心のミドルキックだった。坂下はダメージを受けて動けない状態であったし、よしんば動けたとしても、背を向けている以上、簡単に防御はできない。

 実力に差があると言っても、カリュウの方が体格は大きい。まともに入れば、女の子である坂下など、軽々と吹き飛ばせるということだ。

「ヨシエさん!?」

 まさか、そうなるとは思っていなかったランが、声を上げる。観客の歓声が大きいのでかき消されそうだが、レイカ達も声をあげているようだった。

 しかし、浩之は、ぐっ、と声を出すのを我慢した。葵もそうだった。そして、綾香はそのそぶりすら見せなかった。

 勝負はこの一発で決まった、とでも言うように、カリュウはゆっくりと脚を下ろすと、視線を坂下の方に向けたまま、動きを止める。

 勝敗の合図は、まだかからない。だから、カリュウの正しい選択は、倒れている坂下に向かって行って、もう一度攻撃を繰り返すことだろう。

 万分の一の可能性で、坂下が反撃を繰り出して来たとしても、それでも坂下が腰を落として、身動きの取れない状態は、一方的にカリュウの有利だった。

 慢心、と言っていいのだろうか? ここで、攻撃の手を弛めてしまったカリュウは、ベストの手を打ったことにはならない。

 ベストの手を打ってさえ、まだ坂下には届かないかもしれないのに。

 しかし、それが杞憂であるように、坂下の身体は、ぴくりとも動かない。同時に。

 カリュウの様子が、おかしかった。

 そう、確実におかしい。例え、決着が着いていたとしても、カリュウがここで攻撃の手を弱める、ということ自体が、おかしい。

 三位、という高みまで達するのに、そんな生ぬるい作戦で来られる訳がない。いや、そもそも、そんな気持ちで、坂下の前に立てる訳がないのだ。

 慢心では、ない。カリュウには、攻撃を続けることが、現実的に、不可能だったのだ。

 ずるり

 身体を引きずるようにして、とうとう坂下が動き出した。最大のチャンスを逃したカリュウに、観客からは容赦ない野次が飛ぶ。

 が、それも、一瞬のことだった。ホラー映画のモンスターのように重く身体を引きずる坂下の迫力に、すぐに野次を飛ばしていた観客達だけでなく、応援していたレイカ達さえも黙る。

 こきっ、こきっ、と坂下は、調子を見るように、二三度首を左右に傾ける。その目は、カリュウにはまったく向いていない。不用意を超えて、自殺行為にすら見えた。

 だが、カリュウには動きがない。

 一通り身体の動きを確認した坂下は、やっとカリュウに視線を向け、一歩近付くる。

 それに気押されたのか、カリュウは身体を後ろに引く。その一瞬、浩之はカリュウが右脚を引きずったのを見逃さなかった。

「そろそろ動けるようになったかい?」

 それは、今までの過程からは、カリュウが言うべき言葉のはずだった。しかし、それを口にしたのは坂下で、現実は、それが正しかった。

 後ろから蹴られた坂下は、あの一瞬で、カリュウのキックをガードしたのだ。それも、ただ腕でガードするのではなく、肘でカリュウのミドルキックを受け止めたのだ。

 坂下の身体は、まさに凶器であり、しかも、普通でも肘は脛よりも硬い。

 さらに、坂下はあの体勢から、横に飛んで、ダメージを受け流していた。肘で受けても、キックの質量としてのパワーは全て受け流せないという判断からだ。

 結果、坂下はダメージを最小限にとどめ、カリュウは右脛に、肘の直撃を受けてしまったのだ。

 カリュウが追撃しなかったのも、脚のダメージで動けなかったからこそ。もし、あのまま無理に動こうとすれば、倒れていたのはカリュウの方だろう。

 下手をすれば、脛の骨が折れているだろう。そうなれば、試合続行など、さすがに不可能だ。

 しかし、誤解しないで欲しいのは、坂下は、カリュウを誘った訳ではなかったと言うことだ。

 カリュウの宙からのかかとは、坂下の鉄壁の守りを抜けて、坂下に致命的に近いダメージを与えた。

 本当にカリュウのミドルキックが来る一瞬前まで、坂下は動けなかったのだ。

 つまり、それは作戦などではなかった。しかし、作戦ではなかったからこそ、坂下の恐ろしさが良く分かる。

 カリュウは、坂下の動きを、かなりのところ読んでいた。だからこそ、坂下の裏をかくような攻撃が出せたのだ。

 そして、坂下はもっと凄い。背を向けたまま、カリュウのミドルキックのタイミングと軌道を読み切ったのだ。

 浩之が言うまでもない。それはもう悪魔的を超えて、怪物の所行だった。

 カリュウは、何もミスはしていない、と言っても嘘ではない。それを、坂下が超えただけの話なのだ。

 いや、そもそも。

 回復するまで、待たれた。そう感じたのか、カリュウの表情が、マスクの上からでも分かるぐらい、険しくなっていく。

 だが、坂下だって手加減をしているつもりはなかった。

「私も回復する時間が欲しかったから、まあ、おあいこってことだね」

 不意を突かれた宙からの蹴りと、かなりのところダメージは殺したが、直撃に近いミドルキック。坂下だって、不死身ではない。ダメージは蓄積されていた。

 カリュウが無理にでも来るのなら、それでも相手になったが、とりあえず最低限回復するまでは、坂下だってむやみに攻めたりはしない。

 その変わり、と言っては何だが。

 坂下も、ある意味、本気を出そう、と思った。

 坂下の左手が、右手のウレタンナックルにかかる。

 ぞっ、と見ている者に、寒気が走る。鉄のナックルをつけていたアリゲーターを、正面からたたき壊した、坂下の「素手」。

 一度見た者は、それを怖い、と思うのは仕方のない話だった。自由自在に動く刃物を持っているよりも、数段怖いのだから。

 べりっ、とウレタンナックルをはがそうと、手をかけたところで、いきなり、カリュウがよみがえったように坂下に飛びかかった。

 今まで脚のダメージを消すことに時間をついやしていたとしても、まだ完全とは言えないだろう。しかし、カリュウには、ここで前に出ない、という選択肢はなかった。

 坂下は、本気ではあっても、ある意味ハンデをわざわざ手につけて戦っている。それがどれほどの違いを生むのか、有利不利で言えば、むしろ同じぐらい、と言える。

 ウレタンナックルを外せば、拳を痛める可能性があるのだ。人間の骨格は、人間の身体を力まかせに殴れるようには出来ていないのだから。それに、衝撃という点においては、拳を守るものがあった方がいいぐらいだ。

 しかし、坂下は違う、坂下が素手になれば、確実に、坂下は強くなる。

 坂下が本気になるのを邪魔する。それは、ある意味矛盾していて、ある意味正しい。

 試合場に、その姿で立った以上、それが坂下のスペック。そこから坂下が有利になるのを止めるのは、むしろ正しい、と言えるだろう。

 だいたい、甘いことを言えるほど、カリュウには余裕がないのだ。

 自分がウレタンナックルを外すのを邪魔しようとするカリュウに、坂下はにやり、と嬉しそうに笑ってから、ウレタンナックルから手を放して、カリュウを迎え撃った。

 

続く

 

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