カリュウの右ハイキックが、坂下の頭に、吸い込まれるように。
入った。
入った!!入った、とうとう、入ったのだ!!
カリュウは、声を出していない。しかし、それが観ている者には聞こえた。
観ている者が、そんな幻聴を聞いてしまうような、そんな一瞬の後、坂下の頭が、大きく横にはね飛ばされる。しかし、今度は前のように、身体ごとではない。耐えきれなくなったように、頭だけが、横にずれる。
自分から飛んでダメージを殺すとか、そんな言葉など思いつかない、完全な、クリーンヒットだった。
絶対の防御を誇る坂下が、何故クリーンヒットを、と思うが、しかし、現実、カリュウの一撃は、坂下に入った。
防御を破るには、相手の予想と反射神経を、どちらも上回る方法と、もう一つ、裏をかく、という手があった。
だが、カリュウはただ裏をかいただけではない。さらに、相手の経験すらも、逆手に取ったのだ。
ビッ、と二人の力で引っ張られていたウレタンナックルが、あっさりと破れ、切れ端を残してカリュウの手から外れた。
空手着を着ている坂下は、道着を持たれる経験はあっただろう。だから、おそらくは道着をつかんだだけでは、あっさりと外されてしまうだろう。何より、坂下は、空手家には普通ありえないが、袖などを持たれるのには慣れている。
だが、カリュウは、あえて道着を狙わなかった。狙ったのは、半分はずれかけて、丁度持ち易くなっていた、ウレタンナックル。
ウレタンナックルが破れて、初めて浩之はカリュウが何を狙っていたのか、分かった。
カリュウとしては、ウレタンナックルを外されるのも困るが、まったく外さないでおかれても困るのだ。だからこその、まるで坂下の拳を恐れているような動きを取っていたのだ。
拳を固定される、という坂下が不慣れな状況を作り、その一瞬にかけた。坂下でも、予想外の方向から引っ張られては、バランスが崩れるのも仕方ないだろう。
そうやって、カリュウは、坂下の防御をこじ開けたのだ。二度とは使えないだろう。しかし、その一度でいい。今、カリュウに勝機があった。
何とか後ろに下がろうとした坂下の膝が、耐えきれなくなったように、ガクッ、と崩れる。
と同時に、カリュウはすぐそこにいる坂下に向かって、前進するために、一歩足を前に出した。
ハイキックのクリーンヒットだ。素人のそれならともかく、カリュウというマスカレイドでも上位にいる選手であるから、普通はこの一撃で決まる。
だが、油断は出来ない。もう、それは油断ではなく、臆病とも言えるかもしれないが、どう言われたところで、カリュウは攻撃の手をやめないだろう。
坂下に、完全に勝つまでは、攻撃を止めること自体が、ありえない。
打撃でもいい、組み技でもいい、とにかく、後もう一歩だった。もう一歩で、坂下は、倒れる。
それでも、根性なのかそういう生き物なのか、坂下は完全には崩れずに、少しでも距離を取るためか、後ろに下がる。
しかし、その距離は後二歩でつまる。坂下でも、カリュウが後二歩下がる間に、ダメージを問題のないところまで、あっても無理に戦えるところまで消すのは、無理だ。
カリュウが、前にまた一歩出る。
ランでさえ、坂下の方に注目しているこのときに、何故か、浩之は、綾香の方に、そっと視線を向けていた。
綾香は落ち着いているもので、坂下とはもう決着も何度もつけて、まったくわだかまりがないのか、坂下が今まさに負けようとしているのに、にやにやと笑ったまま、試合場に目を向けていた。
もちろん、綾香は浩之が自分を見ていることなど気付いていたのだろう。その一瞬で、ちらっ、と視線を浩之に向けると、何かをつぶやこうとした。
と同時に、浩之はどうしてかわからないが、慌てて試合場に目を向けていた。
カリュウは、三歩目を、出せなかった。
右足に体重が乗った瞬間、カリュウは、前に崩れ落ちるように、倒れた。
伸びた腕が、坂下の足首を掴もうと伸ばされるが、そのまごついていた時間に、坂下は、さらに後ろに下がっていた。
ざっ、とカリュウが地面に倒れ、それに遅れて、坂下がガシャリ、と力なく金網に崩れかかる。
「ほら、決定的場面見逃すところだったでしょ?」
綾香は、まるでそれを知っていたかのように、当然とばかりに言い放った。
カリュウ本人ですら、何が起こったのか分からなかったのだろう。自分の動かなくなった足を、惚けたように見ていた。
それはほんの少しの間で、カリュウはすぐに立ち上がろうとして、また崩れるように倒れた。本当に、片脚が動かないようだった。
そんな動かない片脚など、放っておいて腕でひきずってでも坂下に肉迫すべきだったのだ。しかし、何が起こったのか分からなかったカリュウは、それに思いつくまで、さらに少しの時間を要した。
倒れたカリュウの腕すら届かないところまで、何とか逃げた坂下は、金網にもたれかかって、ぴくりとも動かない。
ダメージは深刻なようだった。しかし、坂下は、それでも何とかする手を、あの一瞬でこなしたのだ。
もう、腕でのガードでは間に合わない、と坂下は一瞬で悟り、そのハイキックに頭を自分からぶつけていったのだ。
正確には、前頭葉を坂下の脛に当てたのだ。そして、首を力で固定することで、脳震盪を防ぐ。頭への衝撃は当然殺しきれないが、カリュウは脛に一度ダメージを受けていた。それがかなり効いたはずだ。
そして同時に、防御に間に合わない、と思った瞬間から、坂下は防御の為の左腕を、攻撃の為に使ったのだ。
坂下にハイキックが入った一瞬後に、坂下の肘がカリュウの戻る前の右脚の、ももの裏に入ったのだ。自分が影になって、カリュウは攻撃を受けたことすら気付かなかった。
いや、坂下にハイキックをクリーンヒットさせたことで、他のことが考えられなくなったのかもしれない。
しかし、ダメージは確実に当たっており、結果、カリュウの右脚は、しばらく動かなくなった。
ハイキックを受けた後に来るなんて、そんなもの予想しろと言う方が無理な、まさに神技。
だが、それはあくまで坂下でも至難の、とっさの技。時間稼ぎにしかならない。勝負を決める一撃にはならないのだ。
そもそも、カリュウの脚が動くようになるまでの時間も、そう長いものではなかったのだ。
それが、カリュウにとってどれほど長い時間だったかは、言うまでもないことだが。
その大して長くもない時間で、坂下は、もたれかかっていた金網から、身体を持ち上げていた。
カリュウと違い、坂下は、動かない身体のことなど無視して、というより回復につとめて、その間に出来ることをした。
坂下は、顔を上げた。
ダメージは、残念ながらこちらが上々。有利不利を言うのならば、私の方が断然不利。
それでも、そんなダメージの中、坂下は笑っていた。笑って、しっかりと二本の脚で立ち。
でも、細工も、上々。
拳から外したウレタンナックルを、坂下は投げ捨てた。
続く