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最強格闘王女伝説綾香

 

五章・実戦(248)

 

 オォォォォォォッ!!

 ウレタンナックルを外した、それだけのことで、観客は驚くほど沸き上がった。それはもう、不自然なほどだった。

 坂下は、まだ一度しかマスカレイドでは戦っていないのだ。観客にそれが知れ渡るというのは、不思議なようにも思える。

 それだけ、坂下の素拳から繰り出された突きが、アリゲーターのナックルを正面から撃破したことが印象的だった、というのもあるのだが。

 ここまで話が広がっているのは、カリュウの所為もある。

 アリゲーターに対する制裁は、マスカレイドから映像を手に入れることが出来る人間全員に配られていた。サービスの意味もあるのだろうが、関わっている人間全員に見せる必要があったのだ。

 そうでなければ、制裁の意味がない。制裁というのは、見せつけるためにあるのだ。次に同じようなバカをしようとする者を怖じ気づかせるためのものなのだから。

 あのときのカリュウは、かなり印象的だった。容赦なく、慈悲もなく、むしろ残忍なほどにアリゲーターに一撃を入れるそれは、ある意味、試合よりも見ごたえがあった。

 そして、その制裁の映像と共に、坂下とアリゲーターの勝負の行方も画像が配られていたのだ。一応、どういう状況かを説明するためのものだったのだが。

 しかし、人の目につくことが多い、はっきり言って、マスカレイドに関わった人間が全員見た、と言ってもいい、その結果、坂下のネームバリューは怖ろしいぐらいに上がった。

 それは、アリゲーターに必要以上に制裁を加えたカリュウのそれよりも、坂下の素拳の方が、より皆に印象を与えた、と言うことでもある。

 あのカリュウが、感情的にすら思える苛烈な攻撃で、アリゲーターを制裁したことで、余計に、それに劣らない、いや、それに優る怖さを見せた坂下の素拳は、マスカレイドの中で、今一番ホットな拳なのだ。

 その素拳が、とうとう、出た。坂下が本気になって、カリュウを撃破する、と誰しも思った。

 もちろん、マスカレイドの観客達は、その状態の坂下をカリュウに撃破して欲しい、と誰しも思っている。坂下の方を応援している人間の方が少ないのだ。

 その少ない応援の中に、しかし浩之は入っていなかった。

 立場的には、坂下の応援をしてしかるべき、なのだろうが、浩之は、カリュウと自分を重ね合わせる、という、どこか愚行めいたものをしている途中で、であれば、自分を応援しない訳がなかった。

 だからこそ、浩之は苦々しく思うのだ。

「今ので決められなかったのは、痛いな」

「そうね。ま、好恵も良い感じでダメージ受けてるから、純粋な戦力で言えば、半々ぐらいじゃない?」

 綾香は、坂下の応援でも、カリュウの応援でもないのか、そんなことを言いいながら、しかし、純粋に試合を楽しんでいるようにも見えた。

 ここまで盛り上がる状態になったのに、いや、だからこそなのか、珍しく楽しそうなだけで、あまり戦っている人間に、あの恐怖じみた執着がないのは良いことだが、一応、親友である坂下の、勝敗が半々、と言われる状態で応援しないのはどうかと思う。

 浩之のように、どちらかに贔屓する理由もないだろうに。

 その態度にかちんと来たのか、それとも他に何かしら文句があったのか、そんな綾香に、姿勢を合わせることなく、ランが反論する。

「あれで決められなかった以上、ヨシエさんが勝ちます」

「ああ、俺もそう思う」

 今更だが、どうも綾香とランの相性が良くないことに気付いた浩之は、間に入るようにそう言った。もちろん、ランの言葉に同意した方が良いと思ってそんなことを言っている訳ではない。純粋に、坂下の方が勝つだろうと思っているからだ。

 だからこそ、言わずにはいられなかったのだ。今ので決められなかったのは、痛い、と。

 カリュウが、坂下が素拳になることを、何としても阻止しようとしたのは、そのウレタンナックルをつかむ、という裏技の所為だけでは、ないはずなのだ。

 見ていないはずがない。アリゲーターを正面から撃破したその拳は、ろくなものじゃない。浩之が言うのだから間違いない。

 当たらなければ問題ないとは言え、怖いものは、怖いのだ。

 浩之だって、正直、素拳の坂下は、綾香と同じぐらい怖い。それで脚がすくんでも、おかしくないほどだ。

 それでも、試合場に立つカリュウには、あきらめた様子は、まったくなかった。

 恐怖を感じてない訳がないのに、強がっているのか、それ以外のものが恐怖を塗り通しているのか、素拳を構えた坂下の前に、カリュウは立つ。

 正直、坂下がここまで追い込まれたのは、油断がなかった、と言えば嘘になるが、油断だけではない、カリュウがここまで坂下を追いつめたのだ。

 しかし、それでも仕留められなかった以上、カリュウにはすでに手はないはずだ。

 じりっ、とカリュウは動いて、おそらくは自分に有利な場所に陣取ろう、として間合いを変えないまま、位置を変える。

 坂下も、おそらくは、カリュウが有利な位置など読めてはいないのだろうが、ゆっくりと間合いを測るように動く。坂下が読めない、というのも凄い話だが、何せ、いかな坂下でも、こんな場所で戦った経験が少なすぎる。

 反対に、カリュウは、事前にどんな地形か教えられていたのだろうか、一番良いと思われる場所を知っており、しかも、状況が変化しても、そこから一番有利になるように地形を活用出来る。そんなこと、知っていてもなかなか出来るものでもないのにだ。

 ……それとも、まだ手があるってのか?

 もう手がない、というのは、浩之の感想なだけで、カリュウが自分で申告した訳でもない。あっても不思議ではない、とも思う。

 しかし、そんな都合の良いことが、早々あるだろうか?

 そんなにぽんぽんと上手の相手を倒す逆転の手を出せるのなら、浩之も苦労はしない。いや、したとしても、もう少しましなはずだ。

 下手の自分達は、全ての手を上手の相手にやられて、それでも何とかしなければならないのに、もう手がなくて、恐怖に震えるぐらいしか出来ないのだ。

 それが証拠に、ほら。

 カリュウの顔が、歪む。恐怖に、と浩之は一瞬、思った。

 しかし、その歪みは、そのままカリュウの口の端を持ち上げた。

 恐怖に歪む、と思ったカリュウの顔は、楽しくて仕方ない、と言わんばかりに、狂気にも似ている笑みに変わったのだ。

「ははっ」

 カリュウが、吐き捨ているように、笑った。それは、カリュウのキャラにはほど遠い、軽薄にも近い笑いだった。

 オォォォォォォォォォォォォォォォォッ?!

 観客が、坂下の素拳のときよりも、大きく盛り上がる。というよりも、疑問符さえその中には入っていた。

 それほどに、カリュウには、怒りは似合っても、笑い声など、何があっても似合わないものだったのだから。

 しかし、それはまるで手慣れた作業でもあるかのように、カリュウの顔に、ぴったりとくっついた。

 それが、また観客達を驚かせる。今まで、観客に見せたことのない、カリュウの一面に。

 まるで、これから始まる、おそらくはこの試合最後の死闘を、楽しむかのように。

 しかし、浩之だけには、誰を置いておいても、浩之だけには、それは違うことのように見えた。

 それは、今まで見てきた狂気に近い、というかぶっちゃけ格闘技に狂っている人間達の笑みとは、大きくかけ離れていた、というのもあるのだが。

 別にどうということはない。浩之が気付いたのは、カリュウに自分を重ねていたから。

 そう、間違いなく、カリュウは怖がっている。

 坂下に対する恐怖に、顔が歪もうとする。それを、意地で、無理矢理笑い顔に変えているだけだ。

 浩之には分かるのだ。

 浩之が綾香に向ける強がりと、カリュウのそれは、まったく同じもの。

 弱い男の上げる、精一杯の、意地、なのだから。

 

続く

 

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