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最強格闘王女伝説綾香

 

五章・実戦(249)

 

 心臓の音が、煩い。

 風邪で寝込んでいるときのような頭痛とだるさを感じながら、坂下はそんなことを思っていた。

 息は、それほどあがってはいない。それでも心臓が激しく動くのは、ダメージを受けて、身体が防御本能で血流を上げているのだ。

 まだ、完全にダメージが抜けたなど、どう転んでも言えない状態だ。カリュウの笑いが強がりなら、坂下の顔にはりつく笑みも、無理矢理作っているようなものだ。

 ただ、坂下は、楽しくて仕方なかった。カリュウは楽しいのか楽しくないのかはわからないが、相手さえいれば、坂下は一方的に楽しくなれた。

 それこそ、相手の都合などおかまいなし。坂下の両拳は、有無を言わせない。

 場の状況も、勝ち目も、さして問題のあるものではない。地面が水で覆われていようが、小さな丘が坂下の邪魔をしようが、何も問題ではない。

 カリュウが、脚を止めた。坂下との距離はそれなりに空いているが、攻撃するにも、完全に守りに入るにも微妙な距離。

 つまり、それがカリュウにとってベストのポジション、と言うわけだ。どう坂下が動こうとも、それに一番良い形で対応できる、そういう位置にいるのだろう。

 それでこそ、待ったかいがあるというものだ。

 もう、坂下の中に違和感などというものはない。ぴったりとあてはまったイメージには、過不足なく、いや、不足だらけだ。

 カリュウが、強がって笑っているのならば、坂下は、辛くとも、楽しくて笑っているのだ。坂下にとってみれば、こうやってぎりぎりの戦いは、まさに何にも代え難い、本気の娯楽。

 まだ、足りない。まだ、やって来い。これで終わりなんて、言うつもり?

 がっ、と坂下は、地面を蹴っていた。カリュウがそこで待ち受けるということは、坂下にとっては一番不利な場所であると同時に、坂下を満足させてくれる場所、でもあるのだ。

 ダメージを受けているのが嘘なのでは、と思うほどのスピードで、坂下がカリュウとの距離をつめる。

 さあ、どう来る?!

 カリュウの反撃を楽しみにしながら、坂下はカリュウに向かって走り込み。カリュウは、まったく動かなかった。カリュウの狙いは、カリュウが動くことによっては、達成できないものだったからだ。

 ズリッ!

「!?」

 後一歩、というところで、坂下は、足をすべらせた。

 芝生の一部分が、はげていたのだ。そこに坂下は全体重をかけて前進しようとして、あっさりとすべった。

 と、それを予測していたカリュウは、前つのめりにバランスを崩した坂下に向かって、残りの距離をつめるために、踏み出していた。

 地味な、しかし、必殺となるはずの、カリュウの動きを必要としない、自然の罠。

 それに坂下がひっかかるとは言い切れないのに、カリュウは、他の攻撃、防御に有利な場所を捨てて、それにかけたのだ。

 坂下相手に、真正面からどんな攻撃をしたところで、簡単に守りきられる。下手をすれば、攻撃したはずの部位が破壊される。

 だから、カリュウは真正面を捨てた。カリュウの手によらない、坂下がバランスを崩すときを狙ったのだ。

 卑怯とは、言うまい。かなり不確かな作戦であり、まさにそれは賭け以外の何物でもなかった。だが、そこに持って行ったのは、カリュウの位置取りがうまかったからなのだ。

 どんな人間だって、バランスが崩れれば、まともに動くことすら出来ない。その無防備な頭めがけて、カリュウは脚を振り上げようとして。

 ドガシッ!!

 とっさに、十字受けで脳天に落ちて来たかかとを受け止めた。

 まえつのめりに倒れそうになったのを、坂下はこらえなかったのだ。そのまま前転して、かかとを近付いてくるカリュウの上に叩き込んだのだ。

 さすがにモーションが大きかったのでカリュウは防御することは出来たが、あまりの威力に、受けきれずに地面に倒れた。さらに言えば、自分が仕掛けた罠を、逆に利用されたショックは大きい。

 が、そのショックも抜けきれない間に、カリュウは素早く立ち上がって、下から繰り出された坂下のキックを後ろに飛んで避ける。

 坂下は、着地するのを最初からあきらめて、倒れたままで下からカリュウを狙ったのだ。もし、下からのキックを避けられれば、倒れた状態でカリュウに身体をさらす、という危険もあったはずなのに、まったく躊躇なかった。

 カリュウが体勢を整える前に、当然、坂下は立ち上がっていた。

「そうそう、何度も策にひっかかると思ったら、大間違いだよ」

 実際のところ、坂下はあっさりとカリュウの策にひっかかったのだが、しかし、そこから動きが、カリュウの策の上を行ったのだ。

 まさか、坂下が前転しながらかかとなどという、トリッキーな技を出してくるとは、カリュウは思わなかったのだろう。

 マスカレイドで戦う選手としては、かなりうかつだ、とも言えるが、カリュウと坂下だからこそ、そのカリュウは坂下の動きを読み切れなかったのだ。

 カリュウは、その失敗を悔しがるそぶりも見せずに、素早く位置を変える。おそらくは、相手の足をすべらせるという策以外は、その位置は適していないのだろう。

 悠長に待ってやっても良かったが、坂下は、すでに我慢の限界に来ていた。

 我慢の限界、それは怒りではなく、嬉しさ、からだ。こらえきれなくなったのだ。何故なら、今まで坂下の足下まで策に入れて戦うような相手に、今まで坂下は出会っていなかったからだ。

 正確に言えば、出会ってはいても、体験するのは初めてだった。

 まだ、まだ何かあるのか、まだ抵抗するのか、まだ私を楽しませてくれるのか。

 そう思うと、こらえきれない。楽しむためには、もっと待って、相手が全てを、本当に骨の髄まで全てをはき出すまで待ってもいいはずなのだが、そんな悠長なこと、言っていられなかった。

 相手にチャンスを与えるのが、油断、というものに近いことが罪悪感ではあったが、それ以上に、坂下は楽しみたかった。

 だが、これほど美味しいものを目の前に見せられれば、もう我慢出来なかった。

「あんた、見直した。ああ、見直したよ」

 そう、カリュウに声をかけるのが、やっとだった。

 牙はむかなかった。武器も持たなかった。手には何もなく、だからこそ、それは坂下にとっての、凶器ともなりえる相棒。

 拳を武器とする獣が、カリュウに向かって、今度こそ全てを無視して走り込んでいた。

 逃げるのなど、間に合わない。そう思ったのだろう、カリュウは、素早く守りの構えを取る。

 いかに坂下が強かろうとも、その拳が凶器と同じでも、要は、当たらなければいいのだ。

 坂下のパンチは、もちろんスピードもパワーも申し分ない、が、カリュウだって、素人どころか、マスカレイドの三位。

 坂下の、左拳を、腕で受け流す。

 ずしり、と重いもので殴られたような感触がカリュウの腕に伝わるが、しかし、カリュウはこれを受け流す。

 そして、カリュウの顔面に狙いをつけていた右拳。当たれば、あっさりと骨ぐらい粉砕する、まさに人外の武器。

 だが、正面であれば。

 カリュウは、坂下の右拳を、さらに腕で受ける。身体をそらしながら、拳の軌道を変え、同じく自分もその軌道から避けることで。

 シュピッ!!

 パワーだけではない、スピードも一級品のそのワンツーを、坂下ばりに、カリュウは避け切り。

 次の瞬間には、訳もわからないまま、カリュウは吹き飛ばされていた。

 

続く

 

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