「好恵、お前がいたからだ」
御木本は、はっきりとそう言い切った。
それは、坂下が欲していた言葉でもあるし、そうでないかもしれない。その言葉だけでは、何とも判断できないものだった。
御木本は、吐き捨てるように言葉を紡ぐ。
「だいたい、俺にしてみれば、高校に入ったころは、マスカレイドでずっともまれているときだぜ? 他に格闘技系の部活がなかったから入ったものの、そんなに長居するつもりはなかったんだよ」
御木本が、空手部とマスカレイド、どちらを優先しているか、という問いには、これで答えが出た。まぎれもなく、後者だ。
実際、聞くまでもない。空手部の練習を、御木本はほとんど真面目にしていなかった。
「……でも、あんたは、まだ空手部にいる」
「そう、俺はまだ空手部にいる。俺にしてみれば、大誤算だ」
苦々しく笑う御木本は、悔しそうに頭をかいた。
「あのときのこと、俺は今でもはっきり覚えてるぜ」
空手部、と言っても、そこにいるのは大したことのないやつだ、と俺は直感で気付いてたさ。これでも、初見の相手と戦うことも多いマスカレイドで試合を繰り返して来たんだ。そこらの機微はよく心得てるつもりさ。
だから、新入生同士のKOのみの練習試合だって、当然、誰にも負ける気はなかった。ぶっちゃけ、あのとき、道場の中で一対一で俺を圧倒できる人間なんていなかったしな。
ケンカばかりやって来た俺にしてみれば、集団で襲って来た相手から逃げる術も心得たもんだ。空手部のやつらに、ちょっと違う世界、ってのを見せて、さっさと逃げるつもりだったんだよ。
池田は、あれは見た瞬間に、やるな、と思ったね。女だてらに体格に恵まれているのもあるが、ありゃセンスがいい。先輩方よりもよっぽど骨がありそうだったね。
その相手は、女にしては背はあるが、空手家としては全然ウェイトの足りなそうな、ハンサム系の新入生。
こりゃ、当然池田が勝つだろう、と思ったさ。俺らの年齢では、ウェイトを覆すほどの実力差、ってのはなかなか手に入るもんじゃねえ。運動音痴相手ならともかく、池田は運動神経も高そうだったしな。
このガタイのいい女、池田のことな、が敵にまわると、逃げるのに苦労しそうだな、と思いながら、俺は練習試合を見てた。
三十秒ほど背の高い女は防御にまわって様子見をしてたみたいだが、そこからは一瞬だったな。あのときのことは、本当に、よく覚えてる。
マスカレイドでは負けがこんでたが、それでも俺には自負があった。しかし、そんなもん、あれを見たら一発で吹き飛んだよ。
まあ、吹き飛んだのは、池田の方だったけどな。
それまで、格闘技に興味はあっても、別に試合に出るなんてことはしてなかったからな。その背の高い女が、どれほどの実力者か、知らなかったんだよ。
いや、問題はそこじゃねえか。俺がはたから見ても、力量を測りきれなかった。それに、俺は驚愕したね。
あのとき、先輩方を観察しとけば、笑えただろうにね。新入生同士で、理不尽な試合をさせて、先輩の立場を確立しよう、ってのに、その新入生の中に、いきなり怪物が紛れ込んでたんだからな。
まあ、俺もそのときは、先輩方のまぬけ面を見て笑う余裕はなかった訳だがね。
おいおい、だから殴ろうとするなよ。これでも珍しく心の底から誉めてんだぜ。ハンサム系、とも言ってるだろ。
……ああ、ちと嘘ついた。
怖い、と思ったさ。怪物って言葉に、誉めてる以外のものがあるとすりゃ、それは、恐怖、ってだけだ。それこそ、お前は言われ慣れてるじゃないのか?
そりゃ怖いさ。たった一発で、人間が床に倒れるんだぜ? それが体格的にも年齢的にも熟成された格闘家ならともかく、見た目せいぜい女の子にもてそう、というぐらいの特徴の女子が、やってのけるんだぜ? 普通で考えられるか?
あのとき、俺の予定は脆くも、そして完璧なまでに崩れ去ったね。
この空手部には、自分が欲するものは何もない、と見切りをつけてたってのに、それがいきなり逆転だぜ。
何がそうさせたって?
そりゃ。
冗談やいつもの軽口を混ぜながら話していた御木本の視線から、しかし、段々と軽薄な雰囲気が抜けていく。そして、それは鋭い、殺気にも似た何かに、集約されていく。
坂下が、かつて経験したことのない視線だった。
「好恵、お前のことを、綺麗だ、と俺は感じちまった」
池田の渾身の一撃を、まるでそこに来る、ということを理解していたかのように流しながら、分かっていたからこそなのか、同じようにまったく無駄のない動きで、防御とほぼ同時に、ミドルキックを池田の脇腹に入れる。
「別に俺はさ、打撃で一撃必殺を狙えることを夢見てた訳じゃねえんだぜ? どっちかってと、グラウンドで戦った方が得意だったしな。最終的に勝てば、それが一発でも百発でも、勝ちは勝ちだ。だから、好恵、お前のあれは、別に俺の理想じゃない」
空手家としての坂下を、目標とした訳ではない。それを、御木本は、坂下の気持ちを理解しているのかしていないのか、はっきりと言い切る。
「だがな、だからこそか。もし、俺が純粋な空手家だったなら、すぐにあきらめがついたのかもしれないな」
坂下が、もうあいずちさえうたない。御木本のことが言っていることを理解できているのか、それともいないのか。
そう、あの坂下が、今はまるでおびえているようにすら見えた。それは言い過ぎだとしても、最低、戸惑ってはいた。
「でも、俺は、思っちまった」
御木本が、カリュウとして戦いながら、どうしても空手部を捨てきれなかった理由。
「お前を倒したい、と思っちまった。好恵、お前に勝ちたい、と本気で願っちまった」
だから、自分の動きを極力見せないために、マスカレイドと自主トレで主に練習をして、空手部では、なるべく手を抜く。相手に情報を知られていない方が有利だからだ。
反対に、御木本は坂下の情報を手に入れるだけ入れることが出来る。
そうでもしなければ、その差は広がることはあっても、縮まることはない、と御木本はその一回だけで気付いたから。
「マスカレイドで戦う理由が、まるまる、お前に勝つ為に変わっちまったんだよ。だから、どっちが本当か、と言われりゃ、お前の前にいる俺が、本物だ」
「……何で、そこまで」
いや、聞かなくてもいいものだ。坂下にだって、それはある。
どうしても倒したい人間は、それこそ最強でもない限り、必ずいる。それが高いか低いかの違いであって、それを乗り越えるという気持ちは、原動力として人を大きく動かすのだ。
しかし、そんなことを思っている以上、坂下は、御木本の言いたいことの、半分も、いや、まったく一つも、理解していない証拠だった。
「何でって、そりゃ……」
一瞬、あの御木本ともあろうものが、言葉につまった。軽口はどこまでも続き、例え暴力に屈しても、言い難い、という理由だけで、言葉を止めたことは、少なくとも坂下の前ではなかったのに。
「負けた俺に、それを聞くかね。畜生、てやつだな。いいだろ、教えてやるよ。ちゃんと俺の口でな」
一瞬、坂下は御木本を止めようとした。しかし、瞬速を誇る坂下の守りは、このときばかりは、ちゃんと機能してくれなかった。
「告白するにも、負けてばかりじゃ、格好つかねえだろ」
御木本の目は、バカみたいに、真剣だった。
続く