うなだれるようにして、座ったまま動かない御木本のいる部屋の中に、ランはそっと入った。
さすがに、部屋に入った瞬間に気付いたのだろう、マスクを外した御木本が、ぎろり、とランの方を睨んで、しかし、すぐに表情をいつもの軽薄なものに戻す。
「よう、何か用か?」
今まで隠れていたランを気にしていなかったことから、御木本はランが覗いていたことは気付いていなかったと思うのだが、御木本は、正体がばれたことぐらい一瞬で気付くだろうに、まったく動じなかった。
「あいにく、今はちょっとお前の相手をしてる余裕はねえなあ。何せ、好恵のやつにしこたまやられたからな。あ、もしかして、膝枕ぐらいしてくれるか?」
余裕がないのは、事実だろう。座ったまま動かないのも、立ち上がればふらつくでは済まないのをわかっているからだ。
いつもの、軽薄な言葉。ランとしては、この軽薄な言葉も嫌いだが、カリュウでいるときの無口な様子も嫌いだ。
ラン自身には自覚はなかったが、要は、何をしたかではなく、人物で好き嫌いを判断していた、ということだ。ランは、とことんカリュウが、そして御木本が嫌いなのだろう。
だが、今のランは上機嫌だった。こんな嫌いな御木本が近くにいても、まったく気にならないぐらいだ。
「ご希望なら、膝枕ぐらいしてあげますよ。ヨシエさんに報告しますが」
それを聞いて、御木本は顔をしかめる。
「ちっ、好恵の名前出したら、俺が何も出来ないと思ってやがるだろう?」
「違うのなら、膝枕ぐらいしてあげてもいいんですが」
「……や、違わねえ。というか、お前、さっきまでの話、聞いてやがったな」
悔しがる御木本を目の前に、ランはふふん、と鼻で笑った。
いつものランなら、冗談でも膝枕などするとは言わないが、今だけは違った。よほど良いことがあったのだろう、かなり嬉しそうだった。
「……てめえも、大した性格みたいだな」
御木本は、ランの機嫌がいいのを、一つは自分の不幸の所為だと理解していた。
「それは、嫌いな人間が、ヨシエさん相手に玉砕するのは、見てて気持ちいいですから」
御木本相手でも、思わず敬語でしゃべってしまうほど、ランは上機嫌なのだ。
「ったく、のぞきなんて、好恵は教えなかっただろうに」
「偶然ですよ、偶然。おかげで、いいものを見させてもらいました」
最初はともかく、坂下が出ていくときは、明らかに隠れていたので、偶然とはとても言えないはずなのだが。
どうも、坂下は殺気さえなければ、隠れた人間には気付かないようだった。すでに、二回、人が見てはいけないような場所を、ランは目撃している。
それを、坂下の隙、というには弱いとは思うが。
「けっ、俺がふられたのが、そんなに嬉しいか?」
「はい、とても」
はっきりと、ランは言い切った。
しかし、どうせ、御木本が告白したところで、坂下がなびくなど、ランは思っていなかった。だから、それは多少嬉しくても、当然のこと、とランの中では消化されるもののはずだった。
ふん、と御木本は鼻をならした。
「お前にゃ悪いが、そんなに悪印象じゃなかっただろ。そりゃ、今回は断られたが、次は成功する可能性だって、まだ残されてる言い方だったじゃねえか」
「御木本……先輩とヨシエさんが付き合う可能性なんて、まったくないと思いますが」
しかし、言われてみれば、断り方は、まだ脈があるような内容だった。
いや、だからこそ、ランは嬉しくてしようがないのだ。
「『あんたのことが嫌いな訳じゃないけど、今、男のことなんか考えられない』……確かに、聞き様によっては、まだ大丈夫そうな気もしますね」
「ちっ、脈なしに決まってる、って顔で言うんじゃねえ」
御木本の不満を、ランは聞き流した。
一番大事なのは、そこではない。御木本が、それでもまだねばった後の、坂下の返答こそが、ランをここまで上機嫌にさせるのだ。
『あんたも、藤田も、私の中では同じようなもんさ』
他の男と同列にされることは、おそらく、御木本にとってはかなり痛い。まあ、「他に気になる男でもいるのか、例えばあの藤田浩之とか」と食い下がった御木本が悪いのだが。
御木本の目は、そう間違っていないように思える。ランも、坂下と浩之の関係をかんぐっているのだ。坂下を好きな御木本なら、同じ結論に達してもそうおかしなことではなく、必死なって、名前を出すのも不思議ではない。
だが、必死だった御木本には悪いが、それは、ランにとってはとても聞きたい言葉だった。
御木本は、これが同一人物か、と思うほど真剣だった。必死だったと言ってもいい。それに、自覚がないならともかく、少なくとも感じていることで嘘をつく坂下ではない。
つまり、ヨシエさんは、浩之先輩のことが、男として好きなのでは、ない。
かなり、ランの心は軽くなった。
危険な来栖川綾香のことを気にして、あまり考えなくなった、いや、考えようとしなかったが、ランには、坂下が浩之のことを好きなのだと思っていた。
尊敬する格闘技の先輩、いや、師匠に対して、嫉妬という気持ちはなかなか出てくるものではなかったが、それでもランはかなり苦悩していたのだ。
それが、こんなどうでもいい男の、無謀な挑戦で、はっきりと否定された。上機嫌になるのは当然とも言える。
「まあ、一筋縄で行くような相手じゃねえことぐらい、最初見たときから気付いてたさ。初めて会って、まだたった一年ちょっとだ。これから、いくらでも時間はある」
そういう御木本は、それはいつもの元気まではないが、それでも落ち込んでいるようには見えなかった。さっきまではかなり必死なように見えたのだが。
「まだ、あきらめないつもりですか?」
「はあ? 何であきらめるんだよ。あの好恵に、俺の立ち位置で、友達とまで言わせたんだぜ? ま、しばらくは静かにしとくさ」
がたっ、と、こらえきれなくなったように、御木本はベンチの上に寝っ転がった。
「あーあ、せっかく、好恵に勝ってから告白しようとしてたのに、くそ、あの赤目の所為で全部ぱーだぜ。俺だって、今の状態で勝てるとは思ってなかったのによ」
マスカレイドでの対戦を、御木本は望んではいなかったのだろう。それを押し切ったのは、当然、試合を組む権利を持った男、赤目しかいない。
「嫌なら、告白なんてしなければ良かったんですよ。ふられるのなんて、分かっていたんですから」
もう遅いが、自分の不安を一つ消してくれたおわびに、ランは、御木本に忠告した。どう見てもバカにしているようにしか聞こえないが、ランは忠告のつもりだったのだ。
「はあ? それこそ寝言は寝て言えよ」
忠告のつもりだったからこそ、ランは予測できなかった。
「こうなった以上、今以外に、告白するタイミングなんてねえよ」
御木本が、意識せずに、手痛い仕返しをしてくるなど。
「ふられるとかふられないとかで、お前は、告白するしないを変えるのかよ?」
その言葉は、ズキン、とランの胸を、刺した。
続く