「何か、珍しわよね。私と浩之が二人でこうして夜の道を歩いてるのって」
「そうか? 俺は、けっこう頻繁にあったような気がするが」
浩之の否定はともかく、綾香は最近では珍しく、浩之と二人で夜の街を歩いていた。と言っても、綾香の家までの、短いデートだ。
浩之が綾香を家まで送っていく途中なのだが、これを言葉にすると、酷く違和感がある。男に送ってもらう、などという必要性が、綾香相手では毛ほどもないからだろう。
ランも葵も坂下もいないのは珍しいことだ。とくに、最近は何かとランは浩之の近くにいるのだから。
それを責める気など、綾香には当然ある。
「そうね、私が珍しいって感じるのは、最近、浩之ったら後輩や坂下ばかりにかまって、私の相手してくれないからじゃない?」
「ぐっ……いや、ちゃんと練習してはいるぞ」
すねた目で浩之を下から見る綾香のかわいさに一瞬くらりと来そうになった浩之だが、それ以上に身の危険を感じて、一歩綾香から逃げる。
が、当たり前のように、綾香は1.5歩ほど浩之との距離をつめた。身体が密着するぐらいの近さだ。もっとも、これぐらいの接近は街を歩いていれば見る光景で、そんなに珍しいものではないのだが、やられる浩之にはけっこう効く攻撃だったりする。
「まあ、私もあれやこれやあって、あんまり練習に顔を出せてないのもあるんだけどね。夏休みの予定、ただ断るだけでも、けっこうな量になるし」
秋にはエクストリームの本戦が待っており、夏休みは綾香にとっても大事な時期ではあるのだが、それ以外にも、綾香には来栖川家の娘、という立場がある。色々なパーティーにも顔を出して欲しいと、誘われているのだ。
最近は、片っ端から断っているが、その手間だって馬鹿にならないし、付き合い上、どうしても外せないものもある。
夏休みには、綾香も練習はハードなものになるし、そんな中でいちいちそんな毒にも薬にも、たまにはなるものなのだが、とにかく面倒なものなどやってられない。
だから、今のうちに済ませるものは済ましているのだ。その所為で、最近の綾香は、けっこうハードな日々を送っているし、葵のところにもなかなか顔を出せていない。
もちろん、その中で鍛錬は怠ってはいけないのだから、ある意味、浩之よりもハードかもしれない。今日のこの日だって、空けるのにけっこう苦労しているのだ。
まるで仕事ですれ違う夫婦のように、浩之と綾香の会う時間は、削られていく。その中で、珍しく二人きりで歩ける時間を、綾香は綾香なりに大切にしたいのだ。
もっとも、有意義な時間、というものが浩之をからかったりいじめたりすることなのは、多少以上に綾香の精神年齢を考えさせられるものだが。
「綾香」
「何?」
「ごめんな、最近、付き合い悪くて」
本当に心から申し訳ないと言っている口調で、浩之が言ったので、綾香は思わず、立ち止まってしまった。それに合わせるように、浩之も足を止める。
「……もう、絶妙なタイミングよね。天然のくせに」
「ん、何だって?」
「何でもないわよ。別にあやまれだなんて言ってないわ。だって、浩之だって、エクストリームに出る選手なんだもの。今の時期、大切よね」
綾香は、浩之を引っ張って歩き出した。
浩之が、綾香の機嫌を取ろうとしてあやまったのではないことぐらいわかっている。浩之は素で、綾香に申し訳ないと思っているのだ。
「もう、負けたくないものね」
「まあな。お前にはあんまりなじみのない感情かもしれないけど」
「あら、言ってくれるわね。私だって、昔は負けたことぐらいあるんだから」
綾香には、もう遠い昔の話としてでしか、それを思い出すことは出来なくなっているが、確かに、空手を習いだしたときは負けることは多かったし、それに、空手に限らなければ、勝負事だ、どうしても勝ち負けはある。いくら勝ちの方が多くとも、負けが無くなるわけではないのだから。
その、負けがなくなる、という状態になっているのが、来栖川綾香という怪物の、今の姿なのだが。
この、鈍感で、天然で、素で女ったらしで、しかも素人である浩之を、綾香は、勝たしてやりたいと思っている。
自分が勝つのはともかく、人を勝たせることがどれほど難しいことか、綾香は自分が強いながらに知ってる。だからこそ、勝たせてやりたい、と強く願うのだ。
もっとも、それは、浩之がより綾香に近付くことを意味する。
綾香が絶対の領域にいる限り、それは変化ない。浩之は、綾香に向かって歩を進めるしかないのだ。
この二人の実力の差は、離れることはあるだろう。
しかし、決して、浩之が上に行っても、綾香に近付かない、という選択肢はない。浩之が強くなれば、近付くことしか出来ない。脇道にそれることなど、出来ないのだ。
綾香の中には、ある意味矛盾したその気持ちがあるのだ。
浩之を勝たしてやりたい、と思う気持ちと、浩之に自分に近付いて欲しくない、という気持ちは、綾香の中でせめぎ合っていて、まだ綾香と浩之との距離が広いからこそ、前者が勝っている。
しかし、より浩之が近付いたとき、これが後者にならない保証は、ない。例え、綾香がどんなに自制したところで、無理だ。
いや、そもそも、綾香は自制という言葉が、一番苦手なのだ。それは理を選ぶことはある。しかし、それは選択であって、自制ではない。
浩之の実力が、自分に近付くことを、自制して容認しなければならなくなったとき。
我慢できるとは、綾香には言い切れない。
我慢できなくなった自分が、何をするのか、綾香本人ですら……いや、綾香にはたいがい見当はついていた。
戦えない程度に、四肢に障害を残す。絶妙な手加減と本気が必要であろうが、綾香は、自分なら出来ると思っていた。
片手の握力が弱らせるだけ、それで十分だ。修練に修練が重なれば、それでもかなり強くはなれるだろうが、しかし、「高み」には届かない。
足の親指を再起不能なほどに粉砕してもいい。とにかく、一箇所でも身体が不自由になれば、もうそれで「高み」には届かなくなる。
それは、綾香とて一緒だ。怪我をしてもその場にとどまれるほど、「高み」は甘くない。そういう世界に、綾香は生きているのだ。
もちろん、浩之にそんなことをする機会は、ない方がいいに決まっているのだが。そうなると、今度は浩之は綾香に近づけない、つまり、強くなれない、ということで、やはり問題が起きる。
結局、これは流れにまかせるしかないのだ。ともすれば、浩之は綾香に近付くことなど出来ないかもしれないのだから。
「でも、夏休みは、ほとんど師匠のところで鍛えることになるから、もっと会えなくなるな」
「せめて、夏休みに入る前に、海ぐらい行きたいわよね」
ああ、でも、それすら嘘、だ。
予定を話し合う間でも、浩之の思考は、どこか違うところに飛んでいる。どうすれば強くなれるのか、一生懸命考えている。
どうやったら、浩之が強くならない、なんてことがあろう。
「ま、何はともあれ、まずは、私の番かな?」
「綾香の番?」
「そう、私の番」
その、わだかまりにも似た、鈍い殺気。綾香は、自制などしない。だったら、どこかで発散するしかないのだ。
「海よりも先に、私のマスカレイドでの試合があるじゃない」
そこで、思い切り相手にぶつけるだけなのだ。
続く