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最強格闘王女伝説綾香

 

五章・実戦(261)

 

 自主休部という真面目な坂下にあるまじき行いをした次の日、坂下は太陽も上がりきる前の早朝に、家から外に出ていた。

「ん〜〜〜っ」

 坂下は、猫のように、ゆっくりと身体を伸ばす。

 まだ少しダメージが残っているのを感じて、坂下は顔をしかめた。

 いや、試合から二日しか経っていないとなれば、これだけ回復しているのはむしろ出来すぎと言ってもいいだろう。昨日部活も休んで回復に費やした意味はあったということだ。

 最後こそ辛勝、とは言えないほど相手を圧倒したが、かなりのダメージを受けることになったのだから。

 坂下としては、ある意味面白くない。御木本程度にこれだけのダメージを当てられた、というのは、坂下の矜持に関わる。

 しかし、御木本が、あれだけ強くなったというのは、面白くないと共に、嬉しいとも感じているのだ。自分を追った人間が、あそこまで強くなっていることが。

 まあ、坂下にしてみれば、御木本には悪いが、すでに終わった話だ。部活に出なかったのも、単純にダメージの回復に努めただけで、まったく他意はなかった。

 まったく酷い話だが、御木本は御木本で、坂下に会いに部活に来ていたのだから、ある意味おあいこだろう。

 坂下は、軽いストレッチの後、ゆっくりと走り出した。早朝のランニングに関しては、坂下は毎日やっている訳ではないが、休息後に身体を温めるためには、よく使っている。

 道さえ選べば、葵にも会えるのだが、別に坂下は会うつもりはなかった。おそらく、葵のペースは坂下が今走っているよりもかなり速いし、会話をしながら走れるようなペースでははしっていないはずだった。

 まあ、葵ががんばっているのを見るのも、悪くはないんだけどね。

 とにもかくにも、今は自分のことだった。なるべく早く、ダメージを回復させなければならないが、身体が衰えては話にならない。

 一日という休息が、坂下の取れる最大の時間だった。

 まだ若いからこそ、すぐにダメージも疲労も抜けていくし、そもそも普段の鍛え方が違う。それ以上の休息は不要だ。

 坂下は、気のない走りを続けながら、身体のギアを少しずつ上げる。鍛えるためではない、温めるためのジョギングなのだから。

 頭の中は、カリュウとの、御木本との試合に飛んでいる。

 すでに、御木本の動きは、多くは頭から抜けている。今後、地形を利用して戦ってくる相手に対しては、前よりもうまく立ち回ることは出来るだろう。そういう経験にはなったが、相手に対しては、すでに印象が薄れていっている。

 何故なら、坂下は坂下で、あの試合で得るものがあったからだ。

 二回……二回か。

 それが喜んでいいものなのか、それとも悔しがるべきなのか、坂下は迷っていた。

 大きなダメージを受けた回数と同じなのが、余計に坂下の判断を悩ませる。

 二回、坂下の動きが、神技とも言っていい域に達した回数だ。

 相手の攻撃に合わせて、こちらの攻撃が届く。感じ的には、交差法にも似ているが、より相手の攻撃に連動した攻撃だ。

 坂下だって、攻撃のタイミングを知っている御木本相手だからこそ出来た神技だ。アリゲーター相手にもやったが、あれは相手が完全に油断してたからこそ出来たもので、坂下にとってみれば凄いとは言えない。

 あれが、いつも使えれば……

 もちろん使えたのは偶然ではない。鍛錬に鍛錬を重ねた結果生まれた、必然の技だ。

 しかし、あれがいつも使えるまでには、坂下は到達出来ていない。休んでいる間に、何度も頭の中でシミュレートしたが、しかし、うまくいくのは、十回に一度程度だった。

 しかし、十回に一度、だ。

 九回は失敗する。動きが良く分かっている御木本という、下の相手、しかもよく分かっている相手で、半々。

 ここで立ち止まる気など、坂下にはさらさらない。それを踏まえた上で言えば。

 それで十分なのだ。

 十回に一度でもいい。その一度が、一番最初、必要なときに出来ればいいのだ。

 おそらく、坂下がこの技を必要とする場面は、そう多くない。日に日にレベルの上がっていく坂下は、あの神技がなくとも、十分猛者達と戦えるからだ。

 しかし、もし使えるのなら、必殺の技となる。二回使っている以上、まだ必殺ではない。が、それも時間をかければ、より必殺に近付くだろう。

 実力の底上げこそ、坂下が一番信ずる強さの証。しかし、時にはそれをも超える技が必要になることもあるだろう。

 全ては、勝つために。

 軽く息が早くなったところで、坂下は走るのをやめた。

 まだ、街は薄暗ささえ残っている。十分もしないうちに明るくはなるだろうが、今はまだ、人影は見えなかった。

 いや、坂下のいく道をふさぐように、人影が、そこにあった。

「……おはよう。朝、早いんだね」

 相手は無言。そもそも、さわやかな朝には、まったく不釣り合いな人物だった。

 顔をすっぽりと覆うフルフェイスのヘルメットに、ガラスにはスモークがかけてあり、顔はまったく見えない。

 全身を、黒いライダースーツのような服で覆い、顔どころか身体のどこにも肌はさらされていない。その手すら、黒い手袋で覆われているのだ。

 そして、その両手にはまだ朝日にすら照らされていないのに、黒光りする、鎖。

 胸のふくらみや、身体のラインから、おそらくは女性であろう、と推測出来るものの、それ以外は何も分からない。

 分かっているのは、彼女が、マスカレイドでただの一度も負けたことのない、最強の一位、チェーンソーと呼ばれることだけだ。

 知っている人間は、さすがにこの格好を真似るなどということはできないし、オリジナルでこんな格好をするとは思えないので、つまりは本人ということだ。

 神出鬼没、坂下の前にも一度現れ、強さを見せつけて、しかしすぐに消えていった。何の為に現れたのかすら分からないし、今ここに来た理由も分からない。

 朝だというのに、まったくさわやかではない雰囲気がまわりに放たれている。しかし、坂下は、それに近付くほど、自分がドキドキしてくるのを気付いていた。

 何の用なのかは、分からない。

 しかし、坂下としても、今この相手に会えるのは、残念でもあり、そして楽しくもある。

「あいさつぐらい、したらどうだい?」

 返事が来るとは、まったく思っていないながらも、坂下は話しかけるのをやめない。無言になったら、逃げられるような気がしたからだ。

 残念なのは、坂下にまだダメージが残っているということだ。これだけの相手だ、本調子でないと厳しいだろう。

 そして嬉しいのは、カリュウというなかなかの大物を喰った後だというのに、すぐにこれだけの獲物を前に出来たことだ。

 が、何はともあれ、坂下は、そんな自分の気持ちを押さえた。

 どうせ、今回も本格的に戦おう、などとはしないことを、何となく分かっていた坂下は、間合いぎりぎりで止まって、見えないチェーンソーの目を睨む。

「で、こんな朝から、何の用だい?」

 不可思議な、しかし必然の対面は、さわやかな朝を迎えようとしていた。

 

続く

 

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