ランは、空手部の朝練にも参加するようになった。試合があるときはともかく、そうでないときは早寝早起きの習慣がついた生活だからこそ出来ることだ。
ただ、朝練とは言っても、自主的に来た部員達がおのおの練習をするだけなので、そんなにきつい練習ではない。その中では、ランは厳しい練習をしている方だろう。
しかし、今問題とするのは、朝練のことではない。すでに朝練は早めに切り上げ、ランは田辺と健介という、かなり特殊な組み合わせで早めに教室に向かっていた。ちなみに、健介だけ別のクラスだ。
ただし、今日は、そこにさらに見慣れない顔が混じることになった。これが問題だった。ランとしては、あまり問題ですらないのだが、主に問題と思っているのは、田辺だろう。まあ、田辺にしてみても、ふってわいたような問題で、それが問題とすら最初はわからなかっただろうが。
「おはようございます、姉さん!!」
その問題は、あのふてぶてしい健介が、いきなり背筋を伸ばして、頭を下げたことから始まった。
「あ、健介。おはよう」
かなりおかしな健介の態度にも、その問題となる少女の方は、さっぱり気にした風もなく、普通に挨拶をかわす。
「ランさんも、おはようございます」
健介に対してはどこかえらそうに挨拶をした彼女だったが、ランに対する挨拶は多少丁重なものだった。ため口で話すほど親しい訳ではないのもあるのかもしれないが。
しかし、ランも挨拶されたからには返さない訳にはいかなく、ぴきっと固まっている田辺を横目に、挨拶をする。
「おはよう、松原さん」
彼女は、言わずと知れた松原葵。エクストリーム部の、一応部長であり、エクストリーム予選を一位で勝ち残った、坂下を一度は倒したことのある猛者で、あんまり重要ではないが、何故か健介は彼女のことを姉さん(あねさんと読む)と呼び、一方的に慕っている。
「おはようございます、えーと」
葵は、二人の横で固まっている田辺を見て、目でも合ったのか、ぺこりとおじぎをする。
「……え、私?」
田辺は、やっと我に返る。
「姉さん、これのことはほっといていいっすよ」
健介が、そう言って葵の視界から田辺を遮る。いつものじゃれ合いだ。
「これって何……」
すかさず、田辺が言い返そうとしたのだが、しかし、それよりも先に葵が健介をたしなめる。
「健介、人に向かってこれ呼ばわり?」
「う、うっす、すみませんスっ!!」
ありえないぐらいの健介の素直ぶりプラス自分が言うはずだった言葉を取られたことで、田辺がかなり憮然としているのに、ランは気付いていた。
が、ランはランとして苦しい立場なのだ。
葵が健介に向かって、一応同じ年だが、先輩ぶるのは、見ていてかなり微笑ましい。葵自身かなりかわいい美少女なので、見ていて思わず微笑ましくなるぐらいだ。
これだけの美少女でも、ランの一番のライバルではないのだが、ランがへこむのももっともだろう。
葵と田辺は面識がないようだった。しかし、それも珍しいことではない。二人ともまだ1年で、しかもクラスが違い、部活も違うとなれば、接点というものはなかなかない。これで、葵が空手部にでも顔を出していれば違うのだろうが。
ランだって、葵が悪い人間だ、などとは、付き合いは短いが決して思わない。しかし、田辺と葵の出会いは、田辺にとっては最悪と言っていいだろう。葵には責はないとは言え、時として少女達は理不尽だ。
「はじめまして、松原です」
「松原……って、もしかして」
しかし、それでも、その名前の影響は大きい。何故なら、坂下に勝った、という話は、どこからともなく広がっているからだ。
「空手部の人ですよね? 好恵さんには、色々お世話になってます」
「た、田辺です。えーと、私も坂下先輩にはお世話になっているというか何と言うか」
田辺は、明らかに、葵の名前に気押されていた。しかし、それも仕方ないだろう。空手部の人間は、坂下の凄さを間近で見ているのだから、余計に坂下を倒したことの凄さを理解できるのだから。
「後、健介がお世話になっているみたいで」
葵は、おそらく笑い話としてそう言い出したのだろうが、その言葉で、いきなり田辺の顔がけわしくなる。
まあ、迷惑をかけていない、とは思わなかったのだが、一応、葵にしては珍しい冗談のつもりだったのだ。それに、根性をたたき直してくれと言ったのは葵で、その点に関しては、責任を多少は感じているのだ。
「え、まさか、健介、予想よりもかなり迷惑かけてたり……」
だが、会話の流れでは仕方ないとは言え、チョイスとしては大きく間違っていた。
「そんなことはないよ、ねえ、健介?」
ぐいっ、と田辺が作ったような笑顔で、健介の腕を抱きかかえたので、話の流れがあまり読めてなかった健介は、顔をしかめる。
「はあ? どうした、田辺。何か悪いものでも……ゲフッ!!」
自分に都合の悪いというか、まったく空気を読んでくれなかった健介を、田辺はボディに肘を叩き込んで黙らせる。鳩尾直撃だった。健介は油断し過ぎとも言う。練習に身が入っていないように見えて、実は最近の方が田辺は強くなったのでは、とランは見て見ぬふりをしながら思った。
「最近は坂下先輩ともそれなりに戦えるようになってきたし、このまま空手部でがんばるのよ、ねえ、健介?」
腕をぐいぐいと抱きかかえて、田辺は無理矢理咳き込む健介に頷かせる。
明らかに対抗意識を燃やしている田辺には悪いが、葵の方は頭に?マークを浮かべて、そんな二人のじゃれあい、健介から言わせれば一方的ないじめ、を見ている。
「とりあえず、仲良くやっているみたいで良かったです。私が好恵さんに頼んだので、迷惑をかけてたら悪いなあ、と思って」
「気にしないで、ほんと、仲良くやってるから」
最低、坂下とそれなりに戦えるというのは、どうひいき目に見ても嘘である。
しかし、仲良くやっている、という部分に関しては、そんなに嘘ではないのでは、とランが第三者の目で見ても思うのだが、いかんせん、今の田辺の言葉は嘘っぽい。
「じゃあ、ランさん、田辺さん、また。健介も、がんばって」
先に教室の前までついた葵は、別段話を引きずる訳でもなく、一人教室に入っていく。
ダメージで挨拶もさせてもらえなかった健介だが、何故か被害を被ったはずの健介の方が睨まれている。
「ふーん、健介。松原さん、ね」
「な、何だよ」
怖い物知らずの健介でも、今の田辺の視線にはひるんで目をそらす。
「ううん、かわいい子だなー、と思って」
「おいこら、姉さんをいやらしい目で見ると、俺が許さねえぞ」
その言葉で、限界まで来ていた田辺の堪忍袋はブチ切れた。当然である。空気読め健介。
「いやらしい目で見てるのはあんたでしょ!? このヘンタイっ! 女ったらし!」
健介の名誉の為に言っておくなら、一応言いがかり的な田辺の怒鳴り声が、廊下に響いた。
嫉妬、という分かり易い態度を見せる田辺を、普通ならば暖かい目で見て、フォローなりしても良かったのだが。
正直、今のランには、二人のじゃれあいは、見ていて苦しかった。
こんなにも、他人が幸せに見えたことはなかった。それほど、今のランはせっぱつまっているのだ。
浩之に、気軽に会えなくなるかもしれない。それは、例え恋のライバルが沢山いたとしても、いつも近くでじゃれあっていられる田辺には、理解してもらえないだろう。
本当に、今の自分には、二人の姿が、まぶしい。
ランの胸は、言い合いをしている二人を見ているだけで、締め付けられるのだった。