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最強格闘王女伝説綾香

 

五章・実戦(265)

 

 タンッ

 葵は、半歩だけ身体を前進させながら、軽い足取りで地面を踏みながら、拳を突き出した。

 身体にはほとんど力を入れていない。そうしなさいと老師に言われた通りに、拳を突き出しただけだ。さすがに様にはなっているものの、威力はなく、これでは子供でも倒せないだろう。

「もう一度」

「はい」

 老師に言われ、また葵は、拳を突き出す。踏み込みもない、スピードも半端、しかし分かるものが見れば分かる、身体の動きの綺麗さが印象的な動きだった。

 葵の拳が、いきなり何か硬く柔らかいものに包まれた。真綿を固めたようなものを殴る感覚があって、葵の身体は、後ろにずれる。

「あ……」

 横から伸びてきた老師の手が、葵の突き出された拳を握ったのだ。それだけなのに、まるで壁を押しているように、葵の身体が後ろに下がるのだ。体格的には、葵よりも小さいのでは、と思えるほどの身体の老師だが、やはり達人と言われるだけの非常識な技量を持っているのだろう。

「ふむ、どうもずれが酷くなってますね。毎日の練習は欠かしてませんね?」

「は、はい」

 無駄のない動きというものは、美しさを生む。そういう意味で葵の突きは美しい、と言われるレベルにまで昇華されているのだが、それですら老師の目から見れば、まだアラが目立つのだろう。

 しかし、それは葵に才能があるからではない。もちろん、才能がない訳ではないが、崩拳がここまでのレベルになったのは、愚直に練習を続ける葵の努力のたまものだ。

 葵は、頭はそんなに良くないと自分でも自覚しているが、言われたことをそのまま鵜呑みにするようなことはない。ちゃんと、自分でかみ砕いて、考えることによってここまで成長して来たのだ。

 その葵をして、素直に聞くことが一番の近道、と思わせた崩拳の練習。葵は、言われた通りの型を、毎日毎日練習している。それこそ、床がすり切れるほどだ。

 練習の途中で、変な癖がついてしまったのだろうか、と葵は考えていた。そういう意味では、ここで形を綺麗にしてもらうことは、非常に効率が良い。

「練習不足ではないですね……松原さん、何か不安なことでもあるのですか?」

「え……は、はい。あ、いえ、いいえ……」

 言葉を濁す葵を見ながら、老師はそのしわだらけの顔に、さらに深いしわを寄せて微笑む。

「心の平静が乱されれば、技に出ますよ。揺れが激しい、いえ、これは焦っているというところですか? よければ、言ってみなさい」

 ずばり、その通りだった。しかし、話すのもどうかと思って、葵は下を向く。

 しかし、少し考えてから、葵は老師に助言を聞くことを選んだ。困ったときは、下手に意地をはらない。それは、葵の大好きな大好きな浩之が教えてくれた、大切なことだからだ。

 それに、老師は葵の不安に答えてくれる要素を、持っている可能性が高い。

「老師、怒られるのを承知で聞きます」

「怒らないから、言ってみなさい」

「はい。……もっと短い時間で、強くなることは出来ないのでしょうか?」

 葵が練習している方法とは、完全に反対の方法、それを、葵はあえて聞いた。

 形意拳の神髄は、正しい動き、その一点だ。それは、理論だけではどうにもならない。正しい動きを何度も何度も繰り返し、身体に覚えさせ、そしての間に自分で最高の点を見つける、そういう地道で、成果のあがりにく方法を、形意拳が取るのは、それが結局一番効率が良いからだ。

 少なくとも、それ以上に効率が良いものを、今までの歴史の中で見つけた者はいない。葵のように、ちゃんと物事を考えながら学ぶ人間ぐらい、長い歴史の中ではいだろうに、だ。

 しかし、言った通り、老師はそれに怒らなかった。深い笑みをたたえたまま、葵の話を聞く。

「私には、好恵さんという先輩がいます。その人に、私は一度だけ出せた崩拳で、勝つことができました。でも……」

 葵も、十二分に強敵と感じるカリュウの打撃に、さらに打撃を合わせる坂下。

 あれは、まさに神技だった。才能ではない、技として、それは神の領域、または怪物の領域だった。

「ついこの間、好恵さんが見せた技を出されたら、私は、崩拳でも勝てないと思いました」

 葵は、坂下の技を、老師に説明する。

 もちろん、あれは坂下の、頑強な骨格と凶器のような素手があればこその技だ。しかし、もしあの神技と、葵の崩拳が重なり合ったとき、どうなるか。

 やってみなくとも、葵には想像出来た。崩拳の一撃に、あの神技は合わせて来る。最短で来る崩拳を受けた坂下の腕は、最短ではなくとも、最高の速度と威力で、葵を屠るだろう。

 もう、葵は一度崩拳を見せてしまっているのだ。反対に、坂下のそれは、見られていても、まったく効果を減らさない。それに、下手にそれを意識して攻撃の迫力が弱まれば、坂下はあっさりその神技を捨てて直に叩きに来るだろう。

 崩拳を破る、神技。しかし、それを聞いても、老師の顔には、何の不安も浮かばなかった。それどころか、格闘バカとは違う、孫の成長を喜ぶおじいさんのように、嬉しそうに微笑む。

「それは、また、若いながらに、そこまで功を成らせる者がいるとは。嬉しいですね」

「……」

 しかし、葵は素直に喜べない。いや、坂下が勝つこと自体は嬉しいのだ。しかし、葵は、格闘家である。自分が負ける訳にはいかないのだ。

 何より大きいのは。

 あんな、神技を使えるようになった好恵さんでも、今まで綾香さんに、勝っていない。

 何を言おうと、葵の最後の目標は、来栖川綾香という怪物。そこにたどり着くために、葵は厳しい練習を続けているとも言える。

 坂下は、言い方は悪いが綾香に勝つための登竜門みたいなものなのだ。

 しかし、そのハードルがさらに高くなる。前に一度勝ったなど、もう有効ではない。次に戦うとき、あの神技を見せられば、葵は負ける。そう感じているのだ。

 自分が、ちゃんと成長していることを葵も分かっている。しかし、それ以上のスピードで、坂下も成長を繰り返しているのだ。そして、それよりもさらに高い場所に綾香がいる。

 もう、本戦までもそう時間はない。2、3ヶ月など、ほんの一瞬だ。

「このままだと、間に合わないんです。私は、もっと、もっと強くなりたいんです!」

「こまったものですね」

 老師は、肩をすくめて、背を向ける。

「老師?」

「話を聞く限り、綾香という子は、飛び抜けてます。才能、という点で言えば、私など、それこそ足下にも及ばないでしょう。松原さん、あなたでも、それは同じだと思います」

「……はい」

「ですが」

 老師は、葵の方に向き直った。

「勝つことは、不可能ではありません。その好恵という子にも、綾香という子にも」

 そこにいたのは、笑顔の優しい好々爺ではなく、厳しい目をした、一人の格闘家だった。

 優しい顔の中に、深く隠してあった、血を持ってのみ完成する、格闘家の顔。それを見たとき、葵は、ここに来たことが間違いでないことを悟った。

「時間は足りないかもしれません、しかし、可能性はあります。松原さん、あなたは、死ぬ覚悟が、ありますか?」

「はいっ!」

 それは、即答だった。

 無茶をしてはいけない。それは、大好きな大好きな、葵の愛する浩之から教えられた言葉。しかし、今の老師の言葉は、それを押さえてでも、葵を頷かせる魅力があった。

 何より、これは、理論的ではないと葵もわかっているが、浩之の為。否、浩之を、自分に振り向かせるには、必ず必要な儀式の為なのだ。

 ざわり、とまわりの兄弟子達がざわめく。素晴らしい成長を続けるが、それは日本で平和な生活を送る少女なのだ。

「よろしい。それでは、松原君を、内弟子として、迎え入れよう」

 それは、日本と言う本国から遥か遠くに来て技を教える、中では変わり者の老師としても、異例の決断だったのだ。

 

続く

 

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