マスカレッドも綾香も、金網に直撃したはずなのに、まったくダメージを受けた様子がない、いや、それどころか、その後の不可解な動きを見て、観客達も、そのトリックに気付き始めた。
浩之も、遅まきながらそれに気付いたが、口をゆがめるに止めた。
まさか、金網を止めている箇所がスプリングになっているなどと、誰が思うだろうか?
ざわつく観客を見ても分かるように、この仕掛けは、マスカレイドでは初めて使われるものなのだろう。
「スプリング……ですか?」
ランも、浩之に遅れてそれに気付いたらしい。唯一、坂下だけはマスカレッドが高速で跳ね返って来たのを見た瞬間に気付いたようだった。
「まったく、プロレスでもするつもりなのかね?」
そう言って、坂下は肩をすくめる。
浩之が口をゆがめたに止めたのは、スプリングのついた金網が、どれだけ有用なのか、ということがわからなかったのもあるが、それでも、お互いに使えるものならば、綾香が遅れを取るとは思わなかったからだ。
それに、綾香は一度、バリスタによって金網に叩き付けられたことがある。確かにそこから怒濤の反撃を繰り出して勝ってはいるが、あの姿を、浩之はもう一度見たいとは思わない。そういう意味では、柔らかい金網というのは、浩之にとっては良いように思えたのだ。
唯一気になるのは、マスカレッドがそこで戦い慣れているか、ということだ。坂下のときもそうだったが、邪魔にはならずとも、有効に使うには慣れが必要なのだ。
一応、まわりの反応から、初めてなのだろうとあたりはつけていた浩之だったが、確認のためにランに聞いてみる。
「なあ、ラン。ああいう仕掛けは初めてなのか?」
「私は初めて見ますし、聞いたこともないです。変わった仕掛けなら、ゼロさんが知っていておかしくないと思うんですが」
マスカレッドの醍醐味の一つに、試合場の豊富さというものがある。それによっても勝敗が大きく変化してしまうのだ。マニアのゼロが見逃すとは思えなかった。
しかし、スプリングが、どれほど有効に働くというのだろうか?
浩之は、だからそれについてはそう心配していなかった。綾香の持ち味を邪魔するものでなければ、いくら相手に有利だろうと、何とかなると信じているのだ。
「しかし、これは綾香も困るねえ」
そんな浩之の考えを、何故か坂下はまっこうから否定した。
「何でだ? スプリングって、そんなにやっかいか?」
「あの相手を目の前にして、あの仕掛けは、私としてはあまり歓迎しないけどね」
いや、自分ならまだましか、と坂下は言う。
「何でだよ? それは、あの巨体の突進力が上がるのは面倒だけどな。それにしたって、来ると分かっていれば、あんな直線的な動き、綾香なら簡単に捉えるだろ」
プロレスのロープで反動をつけるように、確かにマスカレッドは、重い身体でスピードを出すことは可能だろう。
しかし、それははたから見てもバレバレの動きで、来ると分かっていれば、綾香どころか浩之だって回避は可能だ。
綾香が一度は回避するしかなかったのは、意表を突かれたからに過ぎない。いわば、マスカレイドのトリッキー系の動きなのだ。
普通なら、単純に突進して来る相手など、綾香にとってみればどんなに速かろうが、カウンターの餌食でしかないはずだ。
「スピードも上がれば、威力も上がるが、それは綾香のカウンターだって一緒だろ? いや、自在に動ける分、綾香の方が有利なんじゃないのか?」
「じゃあ聞くけど、あの硬い防具の上に、カウンターを当てるのか?」
「そりゃ……」
あの重そうな身体の突進が、一点にかかったとして、それを綾香は実現できるだろう。
しかし、それでどうなる? いかな綾香と言え、それだけの衝撃を、手首一本で支えることが出来るだろうか?
いや、その硬い防具の上から叩けば、物理的な硬さから、綾香の拳が砕けるかもしれない。
防具の薄い箇所を、綾香はちゃんと探していたようだが、突進して来る相手に対して、そこを狙えるだろうか? 狙えたとしても、マスカレッドはそこを防御しているのではないだろうか?
「私なら、あの突進を捉えるだけのものがある。でも、綾香は、それは非常識だけど、非常識でも、線の細さだけは弱点だからね」
普通の人間を超える身体を、確かに綾香は持っている。しかし、それを持ってしても、限界は確かにあるのだ。綾香は非常識でも、不死身ではない。
「反対に、綾香がスピードをあげるにしても、直線的な動きが上がったところで、何になるって言うのか、聞かしてもらいたいね」
坂下の言うことは、もっとも過ぎだ。
一直線の動きが捉えやすいのは、マスカレッドも同じ。綾香がスプリングで加速したとしても、それを捉えるぐらい、仮にもマスカレッドの二位だ、やってくるだろう。
それに、坂下は勘で何となく思っているだけで、口にはしなかったが、スプリングのついた金網を、綾香は自由に使える訳ではない、と感じていた。
そうなのだ。プロレスのロープを例にあげれば、あれはかなり硬い。一般人が正面からぶつかれば、ロープがしなるどころか、骨が折れかねないのだ。
金網は、どう言ったところで、金属。あんなものに、何度もぶつかれば、いくら衝撃が殺せると言っても、綾香の白肌にみみず腫れが出来るだろう。ダメージも皆無という訳にもいくまい。
反対に、マスカレッドは、全身を覆う防具で、それを免れることが出来るのだ。
単純な衝撃吸収もしてくれるし、身体の表面を完全に覆っていて、そこが傷付くことがない。
プロレスのようなロープなら、まだ綾香には、ロープに防御の薄い脇腹を叩き付ける、という荒技も出来たかもしれないが、その状況に持っていくぐらいなら、普通にボディブローを打った方が速いし、一点ではなく全体で当たる金網では、もちろんそんなことは出来ない。
マスカレッドのように、非常識な防具ありきの仕掛けなのだ。同じ非常識でも、綾香の格闘能力では、それを役立てることがほとんど出来ない。
マスカレッドは、いや、赤目は本気だ、ということだろう。唯一負けることとなった一位、チェーンソーとの戦いですら使用しなかった仕掛けを、ここで使ってくるのだ。いや、チェーンソー相手では、同じ防具をつけているので、不利と感じたのかもしれないが。
坂下は、思うのだ。マスカレッドを、綾香はなめるべきではない、と。そして、今綾香が何を思っているのか、知りたいと思うのだ。
今まで、これほど一方的に有利になる仕掛けを持っていながら、しかも、知られてもほとんど問題のないものであるのに、一度も使わなかった意味を。
それでも、今だ一度しか負けていない、という意味を、綾香は分かっているだろうか?
「ふん」
坂下は、二人に気付かれないように、鼻を鳴らした。
何をバカなことを。
聞くまでもない、考えるまでもない。下手な望み、とすら言える。
綾香が、そんな甘いやつなものか。
それを、坂下は誰が言おうと、誰より、浩之よりもよく理解している。綾香と、格闘技との付き合いは、誰よりも坂下は長いのだ。
かけてもいい。綾香は、それを全て分かっていて、面白い、と思っている。
それを証明するかのように、そして坂下がそんなことを思っているのに気付いているかのように、綾香が、マスカレッドを前に、ニヤリと笑ったような気がした。
続く