マスカレッドが宙を飛ぶのを見て、綾香は心の中で舌打ちをすると同時に、上体をスウェイさせていた。
ブオンッ!!
宙にある所為で、ややスピードは落ちたものの、それでも十分な威力を持ったマスカレッドのハンマーナックルが、さっきまで綾香の頭があった場所を通過する。
綾香の下から突き上げる掌打は、完璧だった。例え防具があろうとも、関係ない。一発で相手を悶絶させる自信があった。
しかし、マスカレッドは反撃して来た。が、すでに、そのときには綾香は反撃があると読んでいたのだ。
マスカレッドは、その重さに似合わない動きで、とっさに綾香の掌打と反対方向に飛んだのだ。本当なら、もっと鈍い動きで宙を舞うはずのマスカレッドの動きでもわかったし、手応えも、飛ばれたから半減していた。
ズサッ、とマスカレッドはそのまま着地する、とそのまま、ガッ、と片膝が落ちた。
おおおおぉぉぉぉっ!!
決まりはしなかったものの、マスカレッドが膝をつくことも珍しいので、観客達は一気に盛り上がる。
マスカレッドの膝を折ったのは、今まで一位、チェーンソーしかいなかったのだ。それが、こんな試合序盤とも言える状態で起こるなど、ありえないのだ。
上体をそらして避けた綾香は、そのままバックステップで距離を取ると、片膝をついたマスカレッドに、向かってはいかなかった。
すいっ、と半身の構えを取ると、左手で、くいっくいっ、とマスカレッドを挑発する。
マスカレイド二位のマスカレッドが、膝をついているというのに、その大きなチャンスを目の前にして、まったく攻撃することもなく、それどころか挑発すらする余裕を見せる綾香に、罵声とも歓声とも分からない観客達の激しい声が叩き付けられる。
綾香は、丁度視界に入って来た浩之の方を、横目に見る。もちろん、マスカレッドからは視線は外さずに、だ。
浩之も、一瞬、何をしているのか、という顔をしたみたいだが、すぐに思い直したようで、神妙な顔でまた綾香の方を静かに見つけている。
分かったのか、それとも理詰めで理解したのか。
それは、こんなチャンスをふいにするなど、普通ならば考えられないだろう。いかな頑丈な防具を誇ろうとも、片膝をついて身動きの取れない相手ならば、どうにでもなるはずなのだ。
しかし、綾香はそれでも攻撃には移らなかった。もちろん、余裕がある訳ではない。綾香が押しているし、試合始まってマスカレッドに遅れを取っていないが、それでも、綾香はマスカレッドの強さをなめてなどいなかった。
そんな、あからさまな誘いに、乗ると思う?
片膝をついたのは、明らかに誘いだった。いかに綾香の技が強力でも、直撃を免れた以上、ボディー一発ではマスカレッドを倒すのは不可能だ。
おそらくは、近付いた瞬間に、下から突っ込んでくるつもりだったのだろう。下から来られると、はっきり言ってマスカレッドには隙となる箇所がない。
だいたい、ボディーで倒れるのなら、片膝をつく程度で済む訳はない。頭を揺らされて、脚がきかなくなるのとは大違いなのだ。
ボディーで倒れるということは、あばらが折れるか、ダメージが立っていることを完全に許さなくなった、ということなのだから。
しかし、こうしている間にも、マスカレッドに休憩時間を与えている、という見方もある。しかし、綾香はそれを無視している。
ボディーは、少しぐらい休んだところで、ダメージが抜けるものではない。そういう意味では、ここで時間稼ぎをされても、綾香としては大して痛くもない。
それよりは、相手を挑発して、見せ場を作った方がいくらかましというものだ。もちろん、ここからマスカレッドが華麗に逆転するための布石として、マスカレッドは嬉しがりこそすれ、その挑発で精神的にどうなるということはないのだが。
マスカレッドは、確実に逆転を狙っている。いや、楽勝できる可能性すら捨てて、逆転を狙っていると言っていい。
分かる話だ。すでに、マスカレイドは綾香と坂下によって、ボロボロに荒らされている。ここで権威を復活させる為には、劇的な方法で綾香に勝たねばならないのだ。
が、今の状態が、マスカレッドが望んだものか、というとそうではない。
綾香のおどしとフェイントに、マスカレッドはまんまと引っかかって、受けなくてもいいはずのダメージを受けているのだ。
綾香の全力の打撃ならば、防具をつけたマスカレッドを打撃で倒すことも可能だ。しかし、そのときは、綾香の方もただでは済まない。技の威力に、身体の頑強さがついていかないのだ。
しかし、綾香はそれをあっさりと覆す方法を持っていた。
掌打だ。手のひらという肉に守られたそれは、破壊の為というよりも、伝播という力の方が大きい。
衝撃を、相手に伝えるのだ。しかも、拳と比べて、無茶な表面の破壊を狙わないので、攻撃した側のダメージはかなり低い。
綾香が掌打を見せた瞬間、マスカレッドは必要以上に警戒した。それはそうだ。綾香の打撃ならば、マスカレッドを倒せるというのに、それでも綾香の手足が壊れない可能性を作ってしまったのだから。
マスカレッドは、少しでもダメージを受けるのを嫌った。多少ダメージを受けても反撃で当てられるのならともかく、綾香を捉まえるのは難しい。一方的にダメージを受けていれば、いつかはマスカレッドにも限界が来る。
綾香とて、掌打を使ったとしても、マスカレッドを倒しきるのはぎりぎりだ。しかし、それをそうとは見せずに、ただ相手に、危険性だけを見させ、それを罠として、綾香はあっさりとマスカレッドの懐を取ったのだ。
お腹の防具が弱いとは言っても、まさか、いきなりそこを狙ってくるとは、マスカレッドも思わなかったのだ。まだ、綾香は探りを入れるのを続けるだろうという予想を、綾香は逆手に取り、全力の打撃を叩き込んだ。
しかし、あれで倒せなかったのは、ちょっと痛いわね。
威力と使い所で言えば、マスカレッドを倒すのに一番適した打撃だった。それを、完璧にではないが流されたというのは、綾香にとっても楽しくない話だった。
本当なら、いくらかダメージを当てて、もっと動きを鈍らせているはずなのに。
ダメージのなかったマスカレッドは、十分な動きを取ることが出来、結果必殺を回避したのだ。防具の効果は、はっきり出ていると言って良いだろう。
もう、一度やってしまった以上、マスカレッドは突き上げる掌打を警戒して来るだろう。もちろん、その警戒を逆手に取って他の技を入れる、という手もあるが、突き上げる掌打ほどの効果は得られないだろう。
一応、見た目には私の方が有利なんだけど。
マスカレッドの幾多の仕掛けをものともせず、真っ正面からマスカレッドの身体を切って取ったのだ。これで綾香の方が不利と言うものはいまい。
しかし、綾香は、まったく余裕など持っていなかった。自分の必殺の技を避けられたのは、技がどうというより、この状況ではかなり痛いのだ。
逆転を許すつもりなんて、まったくないけど。
決して楽観できる状況ではないことぐらい、よく分かっている。それでも、挑発を入れて場を盛り上げるあたり、綾香も相当なものだ。
そんな、少し生まれた綾香の不利に、気付いているのかいないのか、マスカレッドは、満を持したように、ゆらり、と立ち上がった。
続く