腕を掴まれたまま、綾香は激しく動いて、少しでもまとを絞らせないようにしているようだった。
これだけ近くにいるというのに、綾香に当たる攻撃の、何と少ないことか。もちろん、それはマスカレッドが無理をしていないということも理由の一つにはあげられるのだろうが。
それにしたって、綾香の技術の凄さが分かろうというものだ。
反対に、これだけ近くにいるというのに、綾香の攻撃は、マスカレッドに届かない。
いや、当たりはするだろう。防御の為の攻撃以外綾香は放っていないが、当てる自信ぐらいはあるだろう。
しかし、その防具を通して、中のマスカレッドにダメージを通す自信はない、ということなのだ。
どちらにしろ、このままでは、綾香はじり貧だった。
しかし、そう分かっていても、打てる手がない。綾香の手首を掴んでいるそれは、人の腕力では外すのはまず不可能であろう。いかに綾香が化け物じみていても、腕力では無理だろう。
と言って、この距離からマスカレッドを仕留める打撃を放つのは、非常に難しい。それでなくとも、マスカレッドも警戒しているのだ。一発二発は、防具の薄い腹部に攻撃を当てることは出来るかもしれないが、そのときは捨て身になる。
耐えられれば、絶対的な回避能力を持っている綾香も、掴まってしまうだろう。
もっとも、今の状態が、掴まっていない、などとは誰も言わないだろうが。
この不利な状況で、綾香はよくやっているとも言える。ただし、あくまで、試合を長引かせる努力でしかないが。
突破口が、欲しい。見ている浩之は、それを切実に願った。
浩之の見る、綾香の、本当の意味でのピンチなのだ。浩之も、同じ状況を何度か覆して来たが、それは運の要素が大きい。
いや、運でいいのだ。一度覆せば、後はもう、綾香がつかまることなどない。
それを分かっているからこそ、マスカレッドは、この一回にかけたのだろう。賭けに勝ったのは、マスカレッドの方だったということだ。
まさか、綾香がここまで追いつめられるとは、浩之だって思っていなかった。今まで、綾香が本当に苦戦したのは、浩之の兄弟子にあたる修治だけだ。
そう、浩之は、拳を握りしめて、そのときを待っていた。
綾香と修治が戦ったとき、修治は、終始綾香を圧倒していた。いや、圧倒とまでは差がなかったような気もするが、押していたのは確かだ。
少なくとも、綾香が投げ飛ばされた瞬間に、普通なら勝敗は決まっていたはずだった。
しかし、結果、引き分けとはなったが、あのとき、そのまま戦いを続けていれば、修治が勝てたとは、とても思えない。
たった一度だけ見せた、綾香の、怪物たる所以。
『三眼』
三つ目の目が開いたかのような、あの人知を越えた、圧倒的な「強さ」。
今の綾香でも、そこで綾香を追いつめているマスカレッドでも、あれ相手では、赤子のようなものだ。本当に、この物語に出てくるのが卑怯としか言い様のない存在。
あれが出れば。
この状況から、綾香が逆転することも、楽なものだろう。
しかし、ただ一度きり、綾香も意識的に出せた訳ではないものだ。そんなものに頼らなければならない時点で、すでに負けているとも言える。
……いや、それでも、負けじゃない。
綾香の、れっきとした強さだ。武器などかわいく見えるほど卑怯であろうとも、綾香だからこそ使える、異能の力。
問題は、それを出せるのか、ということだった。
いかに、あれが強かろうが、使えない力ほど意味のないものはない。そういう意味では、あれは力ですらないのかもしれない。
ガッ!!
「くっ!!」
さらに、綾香の左腕に、どうということのないマスカレッドの拳が当たる。しかし、そのとうということのないそれが、綾香の腕に、青あざを作るのだ。
綾香の腕の引きが、明かに弱まっていた。先ほどまでは、動きながら、多少はマスカレッドを引きずっていたのに、その力が弱まっているのだ。
「綾香っ!!」
浩之は、たまらず、綾香の名前を叫んでいた。それでどう変わる訳ではない。
しかし、わかっていても、叫ばずにはおれなかった。でなければ、このまま、綾香が蟻地獄に落ちた蟻のように、ずるずると落ちていくのでは、という危惧を感じたのだ。
ふいっ、と一瞬、綾香の視線が、浩之の方を向いた。
視線は、すぐにマスカレッドの方に戻ったが、浩之はその僅かな時間で、多くを悟った。
まず、綾香は、まだ冷静さを失っていないということ。この歓声の中で、いかに耳が良かろうとも、冷静でない状態では、浩之の声を聞き分ける、など出来ないだろう。
第二に、まだ、綾香は手を残しているのではないのか、ということだ。
冷静さを失っていないのは、まだ策があるから、というのは安易、というよりも、一般的な人間ならそうだろうが、綾香は、ただ冷静であるが為に冷静であることが出来るだろうから、そう一慨に言えたものではない。
そして、第三に、これが実のところ、一番大事なのだが。
綾香は、笑っていたのだ。それはそれはおかしそうに、口元に笑みを浮かべていた。マスカレッドからは見れない角度だったかもしれないが、浩之には、はっきりと見えた。
まるで、自分は無事だと、浩之に教えるように?
否、そんな気休めでは、あれはない。
綾香が、満面の笑みを浮かべているときに、浩之の感じるものは、寒気だけだ。似合う似合わないで言えば、これほど笑顔が似合う美少女もいないのだろうが、しかし、経験というものは、外見の判断など、さっさと吹っ飛ばす。
……綾香、怒ってたよな。
それはもう、どうしようもないほど怒っていた。あまりの怒りに、反対に冷静になって、浩之に視線を送ることさえするほど。
まあ、わざわざ浩之を怖がらせる為にやった、というのが否定できないあたり、綾香の性格が知れようというものだ。
どうしようもない状況に、腹を立てている?
それこそ、ありえない。浩之は、確信を持って言えた。
綾香は、怒りを、発散するものとしか、捉えていないのだから。
浩之のその不安というか期待というか、かなり微妙な心境になったときに、試合場は、新たな動きを見せた。
浩之が、はっとして試合場に目を向けたときには、すでに、身体は、宙に飛んでいた。
続く