別に何か思うところがあった訳ではなかったが、坂下は一人、暗い夜道を歩いていた。
ついさっきまでは、熱気に包まれたマスカレイドの会場にいた所為か、夜の静けさが耳に痛い。
暗い夜道に、少女が一人、という状況は、あまり好ましくないようにも思えるが、当然、坂下にそんな心配がある訳がない。むしろ、出て来た変質者か犯罪者に同情するぐらいだ。
というよりも、少しでも賢い者ならば、今の坂下には近付いたりすまい。
手に汗握る試合を見たばかりだ。これ以上危険なものはない状態と言える。
他の人間に比べれば、坂下は綾香の勝ちを微塵も疑ってなかったので、観戦しているときは落ち着いたものだった。
しかし、胸の奥でくすぶる熱さは、綾香の勝ちを確信していたのとは、まったく関係ないものだ。
防具に守られ、そして様々な仕掛けをしていたマスカレッドだが、しかし、それでマスカレッドが弱くなる訳ではない。
少なくとも、マスカレッドは、あの仕掛けを使いこなしていた。最後に、おそらくは最大の、しかし回避することが出来ない敗因、動力を使った裏拳すらも、腕は痛めたが、それを最大限に生かす為に、最大限の努力をしていた。
仕掛け使い、と言い切っていいだろう。ただ防具や仕掛けに頼るような選手ならば、あのカリュウ、御木本にすら勝つことは出来まい。
間違いなく、最高レベルの実力を、マスカレッドは持っていた。
しかし、それすら、綾香は真っ正面からへし折ったのだ。
防具に対する過信が小さくない敗因の一つであったとしても、今まで使いこなして来た防具に、自負を持つな、という方が無理なのだ。
綾香ならば、どんなに自信を持った技ですら、正面から撃破して来るだろう。頼ったことは、敗因としては大きくない。
むしろ、坂下が気にしているのは、綾香が使った、ネックロックの方だ。
もともと、同じ空手をやっている人間のはずだった綾香が、いつの間にか、このレベルの選手を、組み技で倒せるほどに成長しているのだ。
坂下も、自分の打撃の方が、硬度は優れていると自負があるが、精度という意味では、さて、引き分けが出来るかどうか、怪しいとすら思っていた。
同じ月日が、二人に平等に過ぎているはずなのに、方や専門の方ですら相手を追い越せていないと感じているのに、相手は打撃の質を上げながら、しかも最高レベルにまで組み技を会得していた。
憎らしい、とは思っても、うらやましい、とは思わない。
それが、来栖川綾香という人間が持つ、才能であることを、坂下は何度も何度も殴られ、蹴られて理解している。
しかし、憎らしい。
理解したところで、納得している訳では、まったくないのだから。
努力は、才能の凌駕する。嘘ではない。才能に恵まれなかった人間の、戯言ではない。努力は、最強の武器だ。無茶をすればするほど、その無茶に身体が耐えられるのならば、努力に終着点はない。才能、という限界のものより、頂点は優れているのだ。
しかし、それすら、綾香は凌駕する。当然なのだ。才能を持った人間が、努力を惜しまなければならない、などという決め事はないのだから。
綾香の才能+努力と、坂下の努力、現在勝っているのは、どちらか、言うまでもない。
まったく、憎らしい。
そう考えながらも、坂下の顔は、どこかにやついていた。外から見れば、嬉しくてしょうがない、という風にしか見えない。
しかし、その表情は、一瞬で消え、抜き身のような雰囲気が、坂下から発せられる。
「……それで、私に何か用事?」
坂下の行く手を阻むように、一人の男が立っていた。気配を消しもしなかったし、そもそも、隠れようという気すらないようだったが、坂下に用事があるのは明らかだった。
いやに首のシルエットの太い男は、ゆるり、と坂下の方に近付いていく。
「さっきの今で来たというのに、酷い言い方ですね」
トレードマークの赤いサングラス、物腰は柔らかいのに、どこか人を小馬鹿にしたような態度、そして、今までにはなかった斬新な首のファッション。
正確には、首にあるのはファッションではなく、コルセットなのだが。
マスカレイドのコーディネイターかディレクターか知らないが、とにかく主催者なのだろう、赤目。
そして、マスカレイド初期からずっと一位を保持し続け、チェーンソーに負けた後でも、その一度しか負けなかった、マスカレイドの二位。
違う、前二位、マスカレッド。
首にコルセットをした状態で、しかし、誰の助けも借りることなく、ゆっくりと坂下の方に近付いてくる。
坂下は、その動きに顔をしかめる。
「さっきの今で動いていい状態には見えないけど?」
ゆっくり歩いてくるのは、それ以上の速度が出せないからだ。試合中のダメージも相当なものになっているだろうし、何より、ギブアップするのが、五体満足でいるには、遅すぎた。
坂下は、マスカレッドのことは知らないが、少なくとも、赤目に好意を抱いたことは一度もない。むしろ嫌いとすら思っている。
しかし、だからと言って、赤目に不幸が訪れればいいと思っている訳ではないのだ。
今の赤目は、歩いているだけで不幸が訪れそうだった。何せ、綾香のネックロックは、容赦がなかった。後数秒遅ければ、命に関わる威力があった。
ギブアップするのが、数瞬遅かった、おそらくは我慢してしまったマスカレッドには、当然、冗談では済まない結果をもたらした。
しかし、赤目は、珍しくあまり深い意味を感じられない、不快にもならない笑みを作って、坂下に返す。
「何、安静にしていれば全快する怪我ですよ。心配には及びません」
だったら安静にしておけ、と坂下は心の中で突っ込んでおいた。その怪我は致し方ないとしても、怪我をして出歩いて悪化させれば、それこそ自業自得だ。
顔に出ていたのか、それを見て、ははは、と赤目は、あきらめたように笑う。
「しかし、負けてしまいましたねえ。まだ坂下さんよりは相性の良い相手だと思ってたんですが」
負けたのがさも以外、という口調で赤目は言う。おそらく、楽観視などはしていなかっただろうに、そこに強がりはない。
確かに、坂下と戦うことを考えれば、綾香の方が相性は良いだろう。
ただし、その相性すら粉砕する綾香の実力、というものが見えていなかった訳でもないだろうに。
負けを笑ってごまかしているわけでもなかろうに、今日の赤目は、軽すぎる。まるで、負けて何か憑き物が落ちてしまったかのようだ。
しかし、坂下は、それには多くを言わない。
「で、わざわざ怪我をおして、私に何の用事なのか?」
「まあ、大方は予測しているのでしょうけどね」
その一瞬だけ、赤目の、そのサングラス越しに赤く見える目は、鋭いものに変わっていた。
「次の、坂下さんの対戦相手の話ですよ」
言いたいことを言い終えて去っていく赤目の後ろ姿を見送る坂下の表情に、一瞬だけ、何とも言えないものが浮かんだ。
おそらくは、今の赤目は、試合が終わったばかりで、現実味がないのだろう。
だから、負けた後、あんなに軽くいられるのだ。
道場でも、部活でも、何度もよく見た光景だ。坂下だって経験がない訳ではない。しかし、赤目は、強すぎた。少なくとも、まわりに倒してくれる人間は、一人しかいなかったのだ。
敗北、という言葉を、赤目はどれほど理解できているのだろうか?
坂下から見れば十歳ぐらいは上なのだろうが、それでも、赤目はまだ若い。
どんなに冷静であろうとも、どんなに頑強であろうとも、負け、という言葉は、その防具すらをあっさりと貫通するのだ。
その点だけで言えば、敗北は、綾香の打撃よりも鋭い。
傷みだけではない、敗北は、今日赤目を、眠りにつかせないだろう。
しかし、坂下は、同情することはしなかった。
負けて苦しむのも、勝って喜ぶのも、本人のものだ。坂下がどうこう言うことではない。
坂下は、その後は、赤目に視線を送ることもなく、帰途についた。
そう、坂下とて、他人にかまっていられるほど、暇ではないのだ。
続く