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最強格闘王女伝説綾香

 

五章・実戦(299)

 

 暗い公園のベンチに、綾香と浩之は、寄り添うように、いや、完全に寄り添って座っていた。

 何故か、浩之の膝の上に、綾香が座っている。

 若いカップルのその程度のいちゃつく姿、夜の公園でなくとも別に珍しくもないが、こと、それがこの二人となると、話は違ってくるような、当然のような。

「んーーーーー」

 綾香は、声を出して、つんととがらせた唇を上に向けている。

 浩之は、それにため息をつきながら、綾香の顔に手を伸ばして。

 ハンカチで、鼻血の跡をふいてやる。

 まるでキスをねだるような仕草ではあったが、顔を、正確には鼻を、いらないことまで言えば鼻血を拭かれる姿は、ある意味かわいいかもしれない。

 浩之は、かなり間抜けだよなあ、と思ったが、口には出さなかった。満身創痍とは言え、綾香のテンションはこれ以上なく上がっているだろう。下手につつけば、それこそ藪から全長5メートルの大蛇が出かねない。丸飲みだ。

 綾香は、浩之の膝の上に座って、まるで口元をふかれる子供のようにおとなしくされるがままになっている。いちゃついている、と言われれば、どんないい訳もできない状況だ。

 しかし、浩之の膝の上に座る綾香は、確かに、満身創痍だった。

 汗で髪はぐしゃぐしゃになっているし、試合場が土だったので、それが汗と重なって、どろだらけになっている。

 何より、その左腕に何個もある青あざは、見ているだけで痛々しい。一応、借りてきた腕にまく氷嚢でアイシングはしているが、それでもどれほどの効果があるか。

 手首にまかれた包帯の下は、おそらくリストカットさながらのひどさだろう。

 即入院、とまでは言わなくとも、医者に行って治療して、そのまま家でしばらくは安静にしておくべき怪我だ。

「ほんとに医者いかなくていいのか?」

 治療は、左腕やダメージを負った箇所を、アイシングしているのと、手首の怪我を消毒して包帯をまいているだけだ。それ自体は正しい処置だとしても、大きな怪我はないのかもしれない、などと楽観視できるような状況では、見た目からない。

「大丈夫大丈夫。打ち身と左腕以外は、骨にも異常なさそうだし、今回は頭にはほとんどクリーンヒットを許してないから」

 マスカレッドの攻撃が、頭部にまともに入ったのは、頭突きが一回と、綾香に鼻血を出させた裏拳ぐらいだろうか?

 頭突きは致命傷にはならなかったし、鼻血もすでに止まっている。後遺症と言う面においては、今日の綾香は大したことはない。

 ……とは、とても言えないと思うんだが。

 左腕のダメージは、かなり深刻なのでは、と浩之は思うのだ。危なっかしくて、綾香の左腕に、浩之は触れもしない。

 いつもと違い、左腕だけが、アイシングをしながらだらんと垂れ下がっているので、余計にそう感じる。

 日常生活には、支障はないのかもしれない。しかし、プロ格闘家として、猛者達とやり合うほどに、その腕は回復するのだろうか?

 正直、骨に異常がないという言葉も完全には信じ切れないのだ。それほどに、マスカレッドの攻撃には容赦がなかった。綾香を壊そう、という意味が、マスカレッドからは感じられたのだ、

 しかし、それが杞憂だ、とでも言うように、綾香は浩之の胸の中で笑う。腕が痛まない訳もないだろうに、それをおくびに出さない。

 どんなに才能に恵まれようと、痛い物は痛いのだ。それを感じなくなるのは、才能ではなく病気だ。

 だから、綾香が笑顔でそれを隠すのは、才能ではなく、どちらかと言うと根性に近いもので、根性、という言葉こそ、綾香からはかけ離れたものに浩之は感じるのだが。

 誰が見ている訳でもないのに、まるで見せびらかすように、試合後のひとときを過ごしていた綾香だが、浩之の不安を感じ取ったのか、少しだけ、真面目な顔になる。

「まあ、この程度なら、三日、ってところかな?」

「三日って……」

 何が三日、かは綾香は言わなかった。日常生活が送れるまで三日なのか、浩之を片手であしらえるようになるのが三日なのか。

 三日後には、完調のマスカレッドと戦っても、勝つ自信があるということなのか。

 自分がバカらしい考えをしたことに気付いて、浩之はふん、と笑った。

「……聞くまでもないか」

「そういうこと」

 綾香は嬉しそうに、まだダメージが残っているであろう身体を、浩之に預ける。

 回復することだけを考えるのなら、医者に行かないまでも、さっさと家に帰って綺麗にしてから寝ればいいものを。

 こんな泥だらけの格好で、汗をかいた後なのに、綾香は平然と浩之にもたれかかる。

 聞くまでもない。綾香は、今この瞬間、マスカレッドに襲われたって勝つ自信がある。逃げ場のない、もたれかかった浩之に襲われたって、返り討ちにする自信がある。

「ま、浩之が襲って来たら、返り討ちにするかどうかは浩之の態度次第だけど」

「頼むから心を読むな」

 浩之の表情から察したとしても、鋭すぎる。ついでに、浩之はそれを深く突っ込まれるのを嫌って、突っ込みは方向を外した。

「さすがに私もこんな汗かいた泥だらけの格好で、しかも外ってのはちょっと……」

「頼むから混ぜっ返すな」

 自分が平気であることを主張したいのか、今日の綾香の冗談は、少々しゃれになっていない。普通の人間ならば、それを空元気と言う。

 しかし、綾香は、空でない元気を、満身創痍の身体からひねり出すことぐらいわけもないのだ。

 僅かばかりの、綾香の勝利を祝っての二人の逢瀬だ。心配するのは当然だが、それでこの時間を断ち切るのは、やぼというものだろう。

 だから浩之は、一つだけ綾香に聞いて、今日はそれについてはふれないことにした。

「綾香」

「ん?」

「マスカレッド、強かったか?」

「……そうね、あのいけすかない修治の半分ぐらい?」

 負ける気は、さらさらなかったし、負けるとすら、一瞬も思わなかった、そういうことだろう。

「そうか」

 正直、浩之はあの舞台に立てるとは、未来永劫思えない。

 しかし、あの壁は、最低限越えねばならない壁。何故なら、その二倍は強い、と言われた修治ですら、綾香を仕留めるまでは行けていないのだ。

 あれで、最低ラインに届いてないってことか。本当に、嫌になるぜ。

 浩之は、あきらめ半分、決心半分に、綾香と、このひとときの逢瀬を静かに続けるのだった。

 

続く

 

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