「久しぶりの登場です」
「? 初鹿さん、何言っているんだ?」
「いえ、こちらのことですから」
浩之は、初鹿の唐突なセリフに怪訝な顔をしながらも、それ以上は突っ込まなかった。何せ、初鹿は優しい顔をして、浩之を手玉に取るぐらい訳がなさそうなのだ。経験則上、突っ込むとろくなことがないぐらい分かっている。
とは言え、ランの攻撃を捌きながら、初鹿の意味の分からないセリフにつっこめる余裕がある、というのも凄い話だ。
「浩之先輩、おしゃべりとは、余裕、ですね!」
あがった息を隠しきれないながらも、ランは果敢に浩之に攻撃を繰り出す。
「あ、いや、すまん。手を抜いている訳じゃないんだぞ?」
と言いながらも、ランのキックは、そのことごとくを浩之の手によって捌かれている。手を抜いている訳ではないが、浩之が非常に余裕を持ってランと対峙にしているのは明らかだった。
先ほどまでは、ロードワークが終わっていた後で、かなり息のあがっていた浩之だったが、それがランと手合わせをしている間に落ち着いたのだ。
浩之は、防御にまわっているだけで、まったく手を出して来ないから、心肺機能的にはランよりは楽だろうが、それにしたって、ランのキックをことごとく捌いて、それで休憩が出来る、というのはさすがにやりすぎだろう。
ランだって、この短い間に、かなり上達したのだ。見違えるほど成長したはずなのに、しかし、浩之との間は、むしろ開いていく一方だった。
一体、どんな練習をしているのだろう?
才能、と一言で片付けるのは簡単だが、生傷の絶えない手足や顔と、ロードワークで走ってくるスピードを見ていると、そんな簡単な言葉では終わらせられない気がするのだ。
どれほどの地獄を、毎日体験しているのだろうか。
そして、それなのに、何故浩之先輩は折れないのだろうか。
一瞬、物思いにふけった瞬間、気付いたら、目の前に浩之の拳があった。少しでも動けば、ランの鼻っつらに叩き込まれる距離。
「あ……」
「ラン、今一瞬気を抜いたろ。反撃がないからって油断してると痛い目見るぜ」
「……すみません」
ランは、落ち込みそうになる気を、何とか保って、再度浩之に蹴りかかる。
浩之先輩は、私のことを思って指導してくれているのに、それで落ち込むなんて出来ない。
もちろん、浩之に注意されたことに落ち込んでいるのではない。
浩之の貴重な時間を費やしているのに、物思いにふけてしまう、自分のふがいなさに落ち込んでいるのだ。
練習に忙しい浩之先輩が、ここに来てくれる時間も、もう残り僅かしかない。それなのに、そんな貴重な時間を、気の抜けた状態で過ごすなんて……
初鹿がいるので、二人きり、という訳にはいかない。
もちろん、浩之と二人きりの練習、というのにも憧れるが、しかし、もしこの状態で二人きりになったら、普通に練習出来ると、ランは自分で思えなかった。
そういう意味では、初鹿がここにいてくれて、別に口を挟む訳でもないのに、横でニコニコと見てくれているのは、結果的にはいいことなのだ。
そう、この貴重な時間を……
ぎりっ、とランは浩之に気付かれないように奥歯をかみしめる。いや、普通ならともかく、対峙して拳を交わしている、一方的に蹴って、一方的に捌かれているだけだが、状態では、いくら鈍感な浩之でも、ランの変化に気付くだろう。
ランは、身体のギアを一つあげる。
ぐんっ、と先ほどまでも手は抜いていなかった脚のスピードが、さらに高まる。それだけではない、脚だけではなく、身体全体を使用して、次の攻撃に移る為の、そして相手を惑わすフェイントの為の、複雑な動きを実現する。
ランのトップスピードで、これは、正直一分どころか、三十秒も持たない。数秒で、心臓が限界を感じて、耳に痛いほどに鼓動が大きくなる。
しかし、こうでもしないと、ランは自分の中にあるもやもやを、隠しきれなかった。
浩之先輩は、忙しい時間を裂いて、私の為にここに来て、私の相手をしてくれている。私から先輩にしてあげられることなんて、もう何もない。
分かっている、それは分かっている、でも!!
この貴重な時間を、どうして、私は戦うことに費やしているんだ!!
ある意味、それは考えてはならない、毒。役にもたたない、いや、役にたとうが、辛いことをしているときに考えてはいけない、死に到る毒。
なのに、ランは身体のスピードを上げる。
「ああああああっ!!」
身体の全てのエネルギーを、こんな設備も整っていない、誰も見ていない、まあ初鹿が見ているが、こんな場所で燃焼させる。
身体に、少しでも力を残した状態で動きを止めれば、良くないことを言ってしまいそうだった。
しかし、それは、ランの本意ではない。
いや、本意なのかも知れない。しかし、ランはそんなことを、望んでなどいない。
この年齢で、少女が、ここまで自分の力を限界まで消費しきることなど、出来るだろうか?
普通なら出来ないそれが、今のランの身体能力であれば、出来てしまうのだ。それは、ランが、すでに一般人の一線を越えた証拠。
普通の女子高生では、もうありえない。
しかし。
初鹿は、その自傷にも似た、しかし決してそうではないランのエネルギーの摩耗を見ながらも、まるで全て分かっているかのように、または全て分かっていないかのように、柔らかい笑みをたたえており。
それだけ燃やし尽くしても。
自己最高の蹴り、というものを、ランは最近更新し続けている。今日も、その自己記録が更新された。
なのに、浩之には、ランの蹴りは、一つも届かなかった。
その一発で、完全に力をつかい切ったランの膝が、エネルギーの切れたロボットのように、落ちる。
浩之がとっさに腕を掴まなければ、ランは頭から地面に倒れていただろう。
すでに、息があがって、声も出ない。困ったような浩之が、何かしらランに言っているようだが、それすらも聞こえて来ない。
しかし、ここまでやったというのに。
ランの胸の中のもやもやは、まったく晴れることもなく。
しかし、何かする力は、出来るだけ全てを使い切ったランには残っておらず、ぐったりとしたまま、ランは、視線を浩之に向けていることしか出来なかった。
それは、はたからみれば、不毛、としか言えないのかもしれない。
しかし、ランには、それをどうすることも出来ないのだ。
続く