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最強格闘王女伝説綾香

 

五章・実戦(302)

 

 暑苦しさを感じて、ランは重いまぶたを開く。

「あ、ランちゃん、大丈夫ですか?」

 目の前にあったのは、初鹿の柔らかい笑顔だった。

「ここは……?」

 今、自分がどういう状態なのか、ランは一瞬理解できなかったが、数秒もすれば、今自分がどんな状態なのかを理解出来た。

 暗い公園のベンチに寝転がり、ランは初鹿に膝枕をしてもらっている状態だった。だから、初鹿の顔は目の前というより、上にある、と言った方が正しい。

 ランは、身体を起こそうとして、胸が妙に重たいことに気付いた。何か乗っている訳ではないが、胸の奥でものがつっかえたような息苦しさがある。

「駄目ですよ、ランちゃん。いくら浩之さんと一緒に練習するのが嬉しいからと言って、自分の限界を考えずに動くのは」

「……限界まで練習しないと、練習とは言わないと思いますが」

 初鹿の心配を、生意気に反論してから、今この状況にどうしてなっているのか、やっとランは思い出した。

「そうか、私、浩之先輩との練習で倒れて……」

 別に浩之にKOされた訳ではない。自分の限界を越える運動を行ったので、酸欠になって意識を失ったのだ。

 格闘技は基本的に無酸素運動、身体の中に蓄えた酸素を使い切ってしまえば、それまでだ。そしてランは、何も考えずに、身体の中の酸素を使い切った。

 もっとも、正しくは、何も考えたくないから、そんな無茶を行ったのだし、だからこそそんな無茶を出来たのだと言える。

 そして、今頃になって、ランは初めて気付いた。浩之の姿が、近くにないのだ。

「浩之先輩は?」

「浩之さんは、私が言って帰しましたよ。一応、ランちゃんが起きたときのためにスポーツドリンクは買って来てもらいましたけれど、忙しい浩之さんを引き留めておくのがランちゃんの本意とは思えなかったので」

「そう……ですか」

 ランとしては、複雑な気分だった。それは、自分で無茶をして倒れたランが自業自得であり、それに浩之を付き合わせるのは本意ではないが、しかし、目覚めたときに、いるはずの浩之がそこにいないというのは、やはり寂しい。

「まあ、難しいところですよね。ランちゃんとしては、浩之さん引き留めたい半分、足を引っ張りたくない半分、というところですか?」

 くすくすっ、と初鹿に笑われる。初鹿にとってみれば、ランの心情など、透けて見えるのだろう。頭がまだ完全にはまわっていない所為で、反論する気さえ起きなかった。

 重い肺と、重い身体。両方を無視して、ランは上体を起こす。

「ランちゃん、無理せずに、まだゆっくりした方がいいと思いますよ?」

 浩之が買って来たらしいスポーツドリンクを手渡しながら、初鹿はそう言ってランの身体を気遣うが、ランは缶を受け取りながら、首を横に振る。

 プルトップを空け、まだ冷たいスポーツドリンクを、ランは欲求の赴くままにごくごくと飲み干す。

「……ふう」

 一息ついてから、ランは気付いた。

「ジュース代は誰に渡せば?」

「浩之さんが買って来たから、浩之さんのお金だけど、おごられておいていいんじゃないかしら? 浩之さんも、かわいい後輩にジュース一本おごるぐらい、先輩の甲斐性は見せたいでしょうし」

「そうですか」

 普通なら、それでも払うと言うのがランの性格だと、ラン本人も思っているが、今は反論しなかった。

 それを見た初鹿の表情が、わずかに陰る。

「……ランちゃん、やはり元気がないですね。大丈夫ですか?」

「身体のことなら、まあ、それなりには」

 それなりには疲労がたまっている。しかし、身体が疲労している所為で、今は感情の方もかなりなりをひそめていた。いや、あまりに落ち着きすぎているので、それが初鹿に心配される原因、と言ってしまえばそれまでだが。

 こんな精神状態で、ジュース代など気にする方がおかしいのだ。身体の疲労で、一時的に現実逃避に成功しているだけなのだから。

 この、一時的な疲労が過ぎれば、またランは悩むだろう。

「初鹿さん、すみません。汗でスカートをよごしてしまって」

「それぐらいいいのよ、ランちゃん」

 初鹿は、それに柔らかい笑顔で答える。まるで、ランの現実逃避に付き合っているかのような態度、いや、初鹿のことだ、意識的に付き合っているのだろう。

 ただ、まあ。

「今のランちゃんの悩みに比べれば、かわいいものだし」

「……」

 まるで、ランの退路を断つかのように、初鹿は話を戻す。

 付き合える、ということは、付き合わないことも出来る、ということだ。そして今回は、付き合わなかっただけ。

 浩之でも、どこか読み切れない、と思わせる柔らかい笑顔の奥で、初鹿は何を考えるのか。

 悪い人間ではないのだろうが、しかし、見た目一辺倒な人間でもないことは、ランもすでに理解している。

「別に、何か悪化したようには私には見えなかったけれど」

「悪化って、何がですか?」

 浩之との仲は、悪化もしていないし、進展という意味では、少しずつ、本当に仲の良い先輩後輩としてならば、進んでいるとすら思う。

 何も、恋愛対象として好かれている、と考えるほどランは夢見がちでもないし、それに気付けないほど鈍感でもない。

 浩之からの気持ちは、悪化していない。それは確かだ。

 悪化している、という意味で言えば、ランの方であるが、しかし、状況は前から進展も悪化もしていないはずなのだ。何せ、ランは何も動いていない。

 状況の変化で会い難くなっても、それで疎遠になるほど浩之が薄情だとも思えないし、本当に、理由を思いつかない。

 ……いや、嘘だ。

 悪化している。状況は、刻一刻と悪化している。その状況こそが、一番問題なのだ。

 しかし、それを初鹿に言ったところで、解決するものでもない。前のように、いきなり直接綾香に言うという手もあるのだろうが。

 綾香が関わっていても、さすがに、今回はそういう訳にはいかない。

「良かったら、相談に乗りましょうか?」

「それは……」

 聞いてもらえば、少しは楽になる、という気持ちと、言っても仕方ない、という気持ちが、ランの中でうずまく。

 いや、そもそも、言ったところで、本当にどうしようもないのだから、そう思ってしまった時点で、ランは初鹿に相談するという選択肢しか取れないのだろうが。

 相談する、ではなく、愚痴を聞いてもらう、程度の効果しか望めなくとも、だ。

 しかし、言っても、本当に仕方のない話なのだ。

 綾香を倒せる人間が、一人減り、また一番希望を持っていた人物が、やはり倒されるだろうことなど、相談しても、仕方ないのだ。

 それでも、まるで花に誘われる蝶のように、初鹿に言われるままにランは口を開いていた。

 

続く

 

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