もう夏はそこまで、というかすでに到来しているようなこの時期であれば、部活が終わった時間は、まだまだ明るい。
しかし、田辺には、その男の姿は、今の今まで目にすらつかなかった。暗がりから、するりと現れたようにしか見えなかったのだ。
フルフェイスのヘルメットを被っており、顔は見えない。別にバイクが近くにある訳でもないので、その姿はどこか違和感があった。
わけもなく、ぞっ、と田辺の背中に悪寒が走る。それは、口調も登場の仕方もその格好も、善良な一般市民ではないと思わせるものだが、そういう部分とは、まったくかけ離れたところで、田辺は、怖いと感じた。
田辺の異変に気付いたのだろう、ぽんっ、と安心させるように、健介は田辺の肩を叩いた。
「……さすがあの空手部、ってところか」
それは、目の前の男には聞こえない、田辺だけに聞こえる声だった。
健介は、田辺から手を放すと、完全に自分の身体で男の視線から、田辺の身体を隠す。
「聞こえなかったか? 男には用はねえ。ま、その女に直接用事がある訳でもないんだがな」
そんなに特徴もない、若い男の声だが、田辺は、それを聞いて余計に不安になる。
もし、目の前に、田辺を守るように立つ健介がいなかったら、まずいと思っても、背を向けて無防備に逃げていただろう。
「うるせえ、持てない男はさっさと消えな。これは俺の女だ」
「誰があんたの女よ」
田辺は、思わず健介の背中に、拳でつっこみを入れる。が、今の健介は、それでは揺らぎもしなかった。
くくっ、とフルフェイスの男は嗤う。
「だったら余計に、さっさと逃げた方が身の為だと思うぜ? 女の前で、ぶざまな姿は見せたくないだろう?」
「……何、この三下」
田辺は、その男が危険だ、と十分肌で感じていたが、それでも突っ込む。あまりにも、言っていることがバカ過ぎる。
例え、相手が危険であったとしても、健介はそれなり、などと言えないほど強いのだ。坂下や寺町相手に戦っているから隠れているものの、並の高校生ではないのだ。
そういう意味では、安心していられる、とも言える。
「はっ、なかなか度胸のある女じゃねえか。まあ、この後もその威勢が続けばいいな。どっちにしろ、泣いても許さねえがな」
フルフェイスで表情は見えないが、舌なめずりするような男の声に、田辺は鳥肌を立てる。
「健介、あれ、やれない?」
田辺は、しごく一般人だが、あそこまで明かに性的な意味が含まれている言葉を聞いて、穏和でいる理由もない。田辺一人のときならともかく、ケンカ慣れした上に、かなり強い健介が前にいるのだ。
しかし、次の田辺に対する健介の言葉は、正気を疑うような言葉だった。
「いいからてめえはさっさと行って坂下呼んで来い。いなけりゃ池田でも……いや、ちと辛いか。あの寺町でもいい、最悪あのクソバカでも許してやる」
「は?」
それは疑おうと言うものだ。ぶざまな姿を見せたくない、というのならば、田辺にではなく坂下にだろう。
ただでさえ、健介はプライドを重視する少年だ。でなければ、「ケンカが強い」などという、それこそ子供の名誉みたいなものを、後生大事に高校まで持ち続けることもなかったろう。
それが、加勢を、それもそのぶざまな姿を見せなくないだろう相手を呼ぶとは。
「坂下先輩なら、一人でどうにかしろって言うと思うけど」
健介相手には、人一倍坂下は厳しいのだ。それだけの力はある、と信頼されているからだろうが、それを健介の方から裏切るようなことをするのだろうか?
「おっと、そう簡単に逃がすと思ってるのか?」
それを聞きつけた男が、一歩近付いてこようとする瞬間、健介が動いた。
「女人質に取って坂下に逆恨み晴らそうなんてゲスに、手加減なんて不要なんだよ!」
大きく、健介が振りかぶる。拳が当たるには、かなり遠い距離だ。それを見た男は、素早く後ろにバックステップして逃げる。まるで、健介の手に何があるのか知っている動きだった。
いや、知っている、というよりも、ありえる、と予測した、と言った方が正しいか。
「人質?」
健介の思いがけない言葉に、田辺は一瞬、何のことなのか理解できなかった。
しかし、すぐに、それに思い当たる。
坂下は、スポーツマンだが、必要あればその拳を振るうことを躊躇しない。その結果、がらの悪い連中にかなり怨みを持たれたこともあるらしい。
そんな中の一人が、部活の後輩の女の子を人質に取って、怨みを晴らそうとしている、という状況だということに、やっと気付いたのだ。
当然、人質とは言っても、命を取られる訳ではないだろうが、乱暴されることは確実だろう。人質を取ってどうこうしようとしている人間に、犯罪とかそんな言葉が通じるとはとても思えない。
「何だ、さっしがいいな」
男は、まったく動じない。知られたのなら、速やかに人質を取って逃げるべきだというのに、それをしようとしない。
「てめえの声に聞き覚えがあるんだよ。ゲスってやつは、覚えておきたくなくても覚えてしまうもんだからな。なあ、アリゲーター」
それを聞いて、男は舌打ちする。
「ちっ、マスカの関係者か」
一瞬、男は何かを思案したようだが、すぐ声に笑いが入る。
「ははっ、だからあのくそ女呼ぼうって訳か。自分ってものが分かってるじゃねえか。俺の記憶にゃ、お前みたいなやつはいなかったからな。そりゃ、俺は怖いよなあ?」
マスカレッド前9位、アリゲーター。
田辺は知らないだろうが、性格は最悪でも、マスカレイドの前一桁台は伊達ではない。
同じくマスカレイド15位であるビレン、健介と、順位で言えば十番も離れていないが、しかし、その差があまりにも大きいことを、この中で誰よりも知っているのは、本人達だろう。
もっとも、アリゲーターは、嘘をついて油断させるつもりでなければ、健介のことは知らないようだった。マスクを被っていないのもあるが、おそらく下位の人間に、アリゲーターが興味がなかったからだろう。
「そういうお前は、坂下に拳割られて、おまけにカリュウに制裁されたくせに」
それを聞いて、明かに男、アリゲーターの雰囲気が豹変する。
自分では、単なる一般人だと思っている田辺だが、しかし、坂下という異点を見てきたことにより、選眼だけは人以上だった。その目が、はっきりと告げている。
逃げろ、この男は危険だ、と。
それは、健介が弱い訳ではなく、この男が、異常なのだと。
「……てめえ、死にたいのか?」
「死ぬのはてめえだろ。これで、マスカは本気になるぜ?」
今病院にいないことが不思議なぐらいだが、今度は間違いなく、後遺症の残るような制裁が待っているだろう。その点、マスカレイドは二度目の人間に容赦ない。
一度は、魔が差した、ということもあろう。しかし、二度続ける人間は、最初から聞く気がないことを、マスカレイドという、もともと聞く気のないような人間が多く集まる場所では、よく分かっており。
分からせる為には、恐怖が一番効率が良いのだ。
「……その前に、あのクソ女犯して殺してやるよ」
アリゲーターも、もちろん聞かない口だ。だから、この後に待っているのが、破滅だと分かっていても、聞く訳がないのだ。
そんな愚かな、しかし、危険な男を前にして。
はっ、と健介は鼻で笑いながら、一瞬、その男から目をそらすことが何より危険だということを知りながら、田辺の方を向いて、ぺしっ、と軽くおでこを叩く。
さっさと行け、という合図だった。
田辺は、もう迷わずに、健介に背を向けて、全力で走り出した。健介の背中から、その殺気の塊のようなものが近付いてくるのを分かりながらも。
元陸上部である田辺の足は、普通よりもかなり速い。だから、田辺が今一番やらなければならないことは、その足で、一秒でも早く、助っ人を連れて来ることだ。
その田辺の背中を押すように、健介は、滅びにひた走るバカな男に怒鳴る。
「出来る訳ねえだろ、ありゃ俺が先約だ! てめえは、ここで俺に負けるんだよ!!」
続く