無警戒に近付いてくる坂下を目の前にして、アリゲーターは危機的状況にあった。
しかし、アリゲーターは、フルフェイスのヘルメットの下で、ほくそ笑んでいた。
バカめ、油断したな?
右手の怪我や、邪魔してくされやがったクソ野郎、健介のことだ、から受けたであろうダメージ、そしてカリュウに受けたダメージのことを考えて、真正面から戦えば、アリゲーターは敵ではないと考えているのだろう。
事実、アリゲーターだって正面から戦おう、と思うほどバカではない。そんなもの、不利どころか、勝つ要因すら思いつかない。
さらに、その為に用意したボウガンすら、あっさりと無効化されてしまったのだ。アリゲーターの心が折れたとしても、不思議ではなかった。
しかし、声こそうなるようなものだったが、アリゲーターのそれは、演技だった。
用意しているものが、ボウガンだけとは思うなよ?
ボウガンの攻撃を、まさか受けきるとは予測していなかったが、どんな場面にも対応できるように、アリゲーターは準備を行っていたのだ。
それもこれも、坂下を倒して、復讐する為だった。その為なら、どんな努力も惜しまないし、クスリの売人を襲うこともいとわなかった。
それをもっと正常な方向に向けていればあるいは、と言えなくもないが、アリゲーターの目は、さらに先を見ていた。
普通にやっては、一生坂下には追いつけない。
アリゲーターだって、無理に自分にとって不利な手を使いたい、とは思っていない。もちろん、倒した後に、思い切り犯し尽くすつもりなので、それは普通の戦いでは出来ないことは分かるが、もし、坂下に勝てたのならば、それでもだいぶ満足は出来ただろう。
しかし、アリゲーターにその選択肢はなかった。一生勝てない、とアリゲーターが今まで何を置いても信じてきた自分の目が訴えているのだ。
だったら、他の手を使うしかないではないか。そして、どんな外道な手であろうとも、それを躊躇するようなアリゲーターではないのだ。
大方、勝ったと思っているだろう、だが、そこが狙い目だ。
言うほど、坂下は油断はしていないだろう。アリゲーターが次の手を用意しているのと同じく、坂下が次の手があると予測していないとは言えない。いや、十中八九は予測している。甘い考えは、この際捨てるべきなのだ。
しかし、それでもアリゲーターは自分の勝ちを疑っていなかった。
予測されているのならば、その裏をかけばいい。
本当は、坂下の為だけに用意した最後の手を、そこに転がっているクソ野郎に使ったのは、アリゲーターにとっては計算ミスだった。
だが、その場面は見られてはいない。その手口がばれなければ、何も問題なかった。
拳をくだかれた右手、おそらくは、坂下はそちらに注目している。普通なら来ないと思っている方向から来る攻撃に、何かしかけがあるとふんでいるだろう。
アリゲーターは、それを逆手に取る。
奥の手は、右ではなく、左に仕掛けてあった。
ナックルよりも危険な武器が、右手には仕掛けてあるのだ。
いや、今は左手にはナックルしか見えない。そんなものを手に持っていたら、簡単にばれてしまうのは分かっていたので、腰に隠しているのだ。
アリゲーターのやらなければならない行動は、左手を軽くでもいいので、腰に持っていった後に、坂下に当てることだった。
これは、そんなに難しい話ではない。坂下は受けを得意としているようであり、ただ当てるだけならば、比較的楽に出来る、とふんでいた。
健介相手のように、うまく胴体に当てることが出来れば効果は大きいが、手足でも問題はなかった。いかに万全ではなくとも、アリゲーターも元一桁台の選手だ、一度チャンスが来れば、後はどうにでもする自信があった。
長引かせると俺の不利だ、危険だが、すぐに決めにいくぜ。
ざっ、と少し遅いスピードで、アリゲーターは坂下との距離を縮める。その際、右手を背中の後ろに隠しておく。何か持っている、と坂下に思わせる為だ。
坂下は、普通に向かってくるアリゲーターを迎撃すべく、構えを取ってる。
その前に出た左腕、狙わせてもらうぜ。
どんなに坂下の拳が硬かろうとも、問題はなかった。当たりさえすれば、坂下がどんなに強かろうと、関係ないのだ。
アリゲーターは、届かないぎりぎりの距離で左ジャブを放つ。
それに坂下は反応して、ジャブを受ける。その程度の動作では、坂下に隙など生まれない。しかし、それは布石だった。
大きく振りかぶるように、右腕を振るう。とっさに、というか、当然、坂下は、その攻撃を受け流そうとする。
ここだ!!
アリゲーターは、素早く左腰からそれを抜き取ると、受けにまわろうとしていた坂下の左腕に素早く左手を叩き付けた。
バチッバチッ!!
打撃では、ありえない音が、響いた。
スタンガン。
アリゲーターの用意した武器。相手に電撃を与えて、相手を無効化する、護身用の武器。
しかし、それはもちろん護身用などではなかった。違法改造で威力をあげられたそれは、下手に心臓にでも当たれば、命を落としかねないものだった。
胴体に当たれば、一撃で相手を無力化するのは道理。どんなに打たれ強くとも、それを我慢など出来ようはずがなかった。
例え、それが坂下でもだ。
ビキッ!!
何かが、決定的に壊れる音をたてた。
「……あ?」
傷みは、感じなかった。ここに来て、また覚醒剤の効果が出て来たのか、その致命的な音は、まるでどこか関係ないところから聞こえてきたように思えた。
左手が、ない?
アリゲーターの目には、自分の左手が、手首から先、見えなくなっていた。
バカな、血も出てないし、そもそも、俺は痛みなんて……
しかし、左手には、まったく感覚がない。本当に、左から先が切断されたように、まったく存在を感じられなかった。
何が、何が起こってる?
「何かあると思ったよ」
坂下の声は、どこかくぐもってアリゲーターには聞こえた。まるで、どこか遠くから、人ではない何かがしゃべるかのようだった。
「うちの健介が、あんたみたいなザコに、遅れを取るとは思わなかったからね」
坂下がそれを予測したのは、何のことはない、健介が倒れていたからだ。
だから、格闘技の腕ではどうしようもないようなことがあった、と坂下は予測したのだ。そして、可能性を考えていけば、おのずと、アリゲーターのやりそうなことは予測出来る。右だろうと左だろうと関係ない、どちらが来ても、坂下は対応する自信があったのだ。
後は、左腕で相手を誘って、仕掛けて来たところで、それを素早く避けて、これこそ無防備に来たその手の甲を、拳の面を水平から、人差し指の箇所だけ立てた一本拳で、打ち抜いた。
「うちで鍛えたんだ、これぐらいで負ける訳がない」
結局は、その点につきる。健介は、思う以上に、仕事をきっちりとこなしたのだ。
壊れたロボットのように、アリゲーターは声に反応したのか、坂下の方を見た。
そこには、一匹の、凶暴そうな虎が、牙をむいていた。
……虎?
その口には、もとはアリゲーターにくっついていたはずの左手が、くわえられていた。
それを、大してうまくもなかったのか、吐き捨てると、再度、虎はアリゲーターに向かって、牙をむいた。
喰わ……れる!!
それは、原始的な、しかし回避できない恐怖だった。動物である人間が、最も恐れる、とすら思われる、「喰われる」恐怖が、アリゲーターの身体を、完全に縮こまらせ。
もちろん、これは、アリゲーターの見る、単なる幻覚である。覚醒剤が入っていたのが、その主な原因なのだろうが。
しかし、坂下の姿が虎に見えた本当の原因は、坂下にあった。
それ以上、何故かなど、説明するまでもなく。
その幻覚を見る時点で、すでに、アリゲーターの心は、完全に折れていた。
躊躇なく、相手を食い殺そうと飛びかかってくる獣の幻覚を見て、アリゲーターの口から、情けない声がもれた。
「ひっ!!」
例え、どんなに負けようとも、決して折れなかった、一度食いつけば、決して放さない獣の名を持つ男は、その瞬間、負けて。
鋭い爪、その幻覚と同じほども鋭い蹴りが。
狩る側であるはずのアリゲーターの意識と心を、完全に、折った。
続く