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最強格闘王女伝説綾香

 

五章・実戦(318)

 

 無警戒に近付いてくる坂下を目の前にして、アリゲーターは危機的状況にあった。

 しかし、アリゲーターは、フルフェイスのヘルメットの下で、ほくそ笑んでいた。

 バカめ、油断したな?

 右手の怪我や、邪魔してくされやがったクソ野郎、健介のことだ、から受けたであろうダメージ、そしてカリュウに受けたダメージのことを考えて、真正面から戦えば、アリゲーターは敵ではないと考えているのだろう。

 事実、アリゲーターだって正面から戦おう、と思うほどバカではない。そんなもの、不利どころか、勝つ要因すら思いつかない。

 さらに、その為に用意したボウガンすら、あっさりと無効化されてしまったのだ。アリゲーターの心が折れたとしても、不思議ではなかった。

 しかし、声こそうなるようなものだったが、アリゲーターのそれは、演技だった。

 用意しているものが、ボウガンだけとは思うなよ?

 ボウガンの攻撃を、まさか受けきるとは予測していなかったが、どんな場面にも対応できるように、アリゲーターは準備を行っていたのだ。

 それもこれも、坂下を倒して、復讐する為だった。その為なら、どんな努力も惜しまないし、クスリの売人を襲うこともいとわなかった。

 それをもっと正常な方向に向けていればあるいは、と言えなくもないが、アリゲーターの目は、さらに先を見ていた。

 普通にやっては、一生坂下には追いつけない。

 アリゲーターだって、無理に自分にとって不利な手を使いたい、とは思っていない。もちろん、倒した後に、思い切り犯し尽くすつもりなので、それは普通の戦いでは出来ないことは分かるが、もし、坂下に勝てたのならば、それでもだいぶ満足は出来ただろう。

 しかし、アリゲーターにその選択肢はなかった。一生勝てない、とアリゲーターが今まで何を置いても信じてきた自分の目が訴えているのだ。

 だったら、他の手を使うしかないではないか。そして、どんな外道な手であろうとも、それを躊躇するようなアリゲーターではないのだ。

 大方、勝ったと思っているだろう、だが、そこが狙い目だ。

 言うほど、坂下は油断はしていないだろう。アリゲーターが次の手を用意しているのと同じく、坂下が次の手があると予測していないとは言えない。いや、十中八九は予測している。甘い考えは、この際捨てるべきなのだ。

 しかし、それでもアリゲーターは自分の勝ちを疑っていなかった。

 予測されているのならば、その裏をかけばいい。

 本当は、坂下の為だけに用意した最後の手を、そこに転がっているクソ野郎に使ったのは、アリゲーターにとっては計算ミスだった。

 だが、その場面は見られてはいない。その手口がばれなければ、何も問題なかった。

 拳をくだかれた右手、おそらくは、坂下はそちらに注目している。普通なら来ないと思っている方向から来る攻撃に、何かしかけがあるとふんでいるだろう。

 アリゲーターは、それを逆手に取る。

 奥の手は、右ではなく、左に仕掛けてあった。

 ナックルよりも危険な武器が、右手には仕掛けてあるのだ。

 いや、今は左手にはナックルしか見えない。そんなものを手に持っていたら、簡単にばれてしまうのは分かっていたので、腰に隠しているのだ。

 アリゲーターのやらなければならない行動は、左手を軽くでもいいので、腰に持っていった後に、坂下に当てることだった。

 これは、そんなに難しい話ではない。坂下は受けを得意としているようであり、ただ当てるだけならば、比較的楽に出来る、とふんでいた。

 健介相手のように、うまく胴体に当てることが出来れば効果は大きいが、手足でも問題はなかった。いかに万全ではなくとも、アリゲーターも元一桁台の選手だ、一度チャンスが来れば、後はどうにでもする自信があった。

 長引かせると俺の不利だ、危険だが、すぐに決めにいくぜ。

 ざっ、と少し遅いスピードで、アリゲーターは坂下との距離を縮める。その際、右手を背中の後ろに隠しておく。何か持っている、と坂下に思わせる為だ。

 坂下は、普通に向かってくるアリゲーターを迎撃すべく、構えを取ってる。

 その前に出た左腕、狙わせてもらうぜ。

 どんなに坂下の拳が硬かろうとも、問題はなかった。当たりさえすれば、坂下がどんなに強かろうと、関係ないのだ。

 アリゲーターは、届かないぎりぎりの距離で左ジャブを放つ。

 それに坂下は反応して、ジャブを受ける。その程度の動作では、坂下に隙など生まれない。しかし、それは布石だった。

 大きく振りかぶるように、右腕を振るう。とっさに、というか、当然、坂下は、その攻撃を受け流そうとする。

 ここだ!!

 アリゲーターは、素早く左腰からそれを抜き取ると、受けにまわろうとしていた坂下の左腕に素早く左手を叩き付けた。

 バチッバチッ!!

 打撃では、ありえない音が、響いた。

 スタンガン。

 アリゲーターの用意した武器。相手に電撃を与えて、相手を無効化する、護身用の武器。

 しかし、それはもちろん護身用などではなかった。違法改造で威力をあげられたそれは、下手に心臓にでも当たれば、命を落としかねないものだった。

 胴体に当たれば、一撃で相手を無力化するのは道理。どんなに打たれ強くとも、それを我慢など出来ようはずがなかった。

 例え、それが坂下でもだ。

 ビキッ!!

 何かが、決定的に壊れる音をたてた。

「……あ?」

 傷みは、感じなかった。ここに来て、また覚醒剤の効果が出て来たのか、その致命的な音は、まるでどこか関係ないところから聞こえてきたように思えた。

 左手が、ない?

 アリゲーターの目には、自分の左手が、手首から先、見えなくなっていた。

 バカな、血も出てないし、そもそも、俺は痛みなんて……

 しかし、左手には、まったく感覚がない。本当に、左から先が切断されたように、まったく存在を感じられなかった。

 何が、何が起こってる?

「何かあると思ったよ」

 坂下の声は、どこかくぐもってアリゲーターには聞こえた。まるで、どこか遠くから、人ではない何かがしゃべるかのようだった。

「うちの健介が、あんたみたいなザコに、遅れを取るとは思わなかったからね」

 坂下がそれを予測したのは、何のことはない、健介が倒れていたからだ。

 だから、格闘技の腕ではどうしようもないようなことがあった、と坂下は予測したのだ。そして、可能性を考えていけば、おのずと、アリゲーターのやりそうなことは予測出来る。右だろうと左だろうと関係ない、どちらが来ても、坂下は対応する自信があったのだ。

 後は、左腕で相手を誘って、仕掛けて来たところで、それを素早く避けて、これこそ無防備に来たその手の甲を、拳の面を水平から、人差し指の箇所だけ立てた一本拳で、打ち抜いた。

「うちで鍛えたんだ、これぐらいで負ける訳がない」

 結局は、その点につきる。健介は、思う以上に、仕事をきっちりとこなしたのだ。

 壊れたロボットのように、アリゲーターは声に反応したのか、坂下の方を見た。

 そこには、一匹の、凶暴そうな虎が、牙をむいていた。

 ……虎?

 その口には、もとはアリゲーターにくっついていたはずの左手が、くわえられていた。

 それを、大してうまくもなかったのか、吐き捨てると、再度、虎はアリゲーターに向かって、牙をむいた。

 喰わ……れる!!

 それは、原始的な、しかし回避できない恐怖だった。動物である人間が、最も恐れる、とすら思われる、「喰われる」恐怖が、アリゲーターの身体を、完全に縮こまらせ。

 もちろん、これは、アリゲーターの見る、単なる幻覚である。覚醒剤が入っていたのが、その主な原因なのだろうが。

 しかし、坂下の姿が虎に見えた本当の原因は、坂下にあった。

 それ以上、何故かなど、説明するまでもなく。

 その幻覚を見る時点で、すでに、アリゲーターの心は、完全に折れていた。

 躊躇なく、相手を食い殺そうと飛びかかってくる獣の幻覚を見て、アリゲーターの口から、情けない声がもれた。

「ひっ!!」

 例え、どんなに負けようとも、決して折れなかった、一度食いつけば、決して放さない獣の名を持つ男は、その瞬間、負けて。

 鋭い爪、その幻覚と同じほども鋭い蹴りが。

 狩る側であるはずのアリゲーターの意識と心を、完全に、折った。

 

続く

 

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