日が落ちた、夜の病室。
「……おい、田辺」
そんな中で、同い年の女の子に、胸の中に飛び込まれたというのに、健介は、いやに落ち着いていた。
高一の少年、と言えば、それはもちろん、性には非常に敏感に反応する年頃だ。
胸の中にいるのが、言葉が悪いが、多少ブサイクであったとしても、女の子であれば、反応しない方がおかしい。それが、田辺のように、そこそこの器量があれば余計にだ。
性格は明るくさっぱりしているし、笑顔の似合うかわいい系の顔に、それなりに発育した身体だ。男ならば、嫌な訳がない。
だから、健介の落ち着きぶりは、異常だった。まるで、嫌がっているようにすら、見える。
反対に、田辺は、健介の胸にとびつき、そのまま身体に腕をまわして健介を抱きしめたまま、顔を上げようとしない。
どうしたものか、という顔で、健介は田辺を見ている。
田辺の肩が、酷く震えているのには、すぐ気付いた。
ああ、そういうことか、と健介は、それらしい理由をつけて納得した。
「……ったく、今頃怖くなったか? まあ、しゃあねえ。普通に暮らしてたら、あんなゲスは淘汰されてるもんだしな」
アリゲーターの怖さに気付いたのなら、今まで平静を保っていた方が驚きなのだ。もし、健介がアリゲーターの足止めに失敗して、アリゲーターにつかまっていたらと思うと、普通の女子高生の田辺が、ここまでおびえるのも分かる。
だから、当然、それを異常だとは思わなかった。
健介には、自覚がない。この場合、どちらが異常であるかを。
さらに言えば、健介は、大きな勘違いをしていた。
「……怖いのは、私のいないところで、健介が怪我すること」
それが過ぎ去った危険であると理解している田辺は、自分のことならば、さて、そこまで怖くなっただろうか?
だが、健介はさっぱりしたものだった。
「あ? 俺が怪我? そんなのするに決まってるだろ」
坂下に毎日KOされているのもあるが、それは坂下がうまく手加減しているので、そんなに心配ではない。だが、無茶な練習や、後はケンカなどで、健介が怪我をするのは、何も不思議なものではない。
その点、健介は、それを覚悟している。まともでない場所に身を置こうが、まともな場所に身を置こうが、それは同じだ。怪我をすることと、負けることは、神の身でも、物の怪の類でもない健介には、避けられない。だからこそ、覚悟もない、あのゲスがさらに嫌いになるのだ。
「だから、嫌なの」
「つってもなあ……」
ぽりぽり、と健介はほほをかく。
つまりは、この二人の温度差が異常なのだ。それに、健介はいつまで経っても気付かない。いや、本人は、温度差のことなら、十分理解しているつもりなのだ。
「ねえ、健介?」
「何だよ」
こんなことでもなければ、田辺だって、こんな温度差のあることをしたりはしなかっただろう。
微妙な距離を、二人は保っていた。絶妙、とすら言って良いだろう。まだ、知り合ってからの時間は短かったが、まるで長年寄り添って来た相棒のように、二人は息が合う。
おそらくは、健介も、それに自覚がある。それを嫌がっても、いないはずだ。
今のところ、田辺に、ライバルになるような女の子はいない。確かに坂下相手では、まったく自分ではかなわないという思いはあったものの、健介が坂下に相手にされるとは、まったく思っていない。
大丈夫と分かっていたからと言っても安心できるものではないのだが、それでも、自分をごまかせるほどには、余裕があった。
だから、例えばランのように、焦る必要はない、はずだったのだ。
「健介は……坂下先輩のこと、好きなの?」
しかし、田辺は、落ち着けた場所を捨てて、その不確かな道を、前に進む他なかった。
僅かな不安と、それに優っていた、心地よい関係。
アリゲーターの出現は、田辺の不安を煽り、その均衡を崩したのだ。
ただでさえ、健介の心は、坂下に向いているというのに。
それも我慢できないことだが、時間をかければ、どうにかなるだろう、と思っていたのに。
その、まだ長いと思っていた時間すら、有限であることに、気付かされた。
そんな想像、普通は出来ない。まさか、まったく別のところから、健介と自分を引き裂く魔の手が伸びてくるなどとは。
今回は、何とか間に合った。
骨数本、それを間に合ったと言っていいのか分からないけれど、それでも、後遺症は残らないと聞いたし、ギリギリだけれども、それでも間に合った。
しかし、次は? こんなことが二度あるとは思えないが、だからと言って、二度とないと言えるか?
そのときも、本当に間に合う?
次は、取り返しのつかないことになるかもしれない。
しかし、健介は、間に合う、と思っていた。自分に自信もあるし、何より、坂下を筆頭とした空手部の面々を、信じることが出来た。
反面、健介には、ものの大切さ、というものが、あまり分からない。
それは、ただの友達なら少なからずいるが、「仲間」と呼べる者を、今まで必要としなかった、人に依存することすら必要としなかった、健介という歪んだ少年だからこそ、の考えだった。
荒れている時期さえ、舎弟やつるむ相手すら必要としなかった。いや、その機会があっても、いらないと思った。
大切な者など、初めて持った健介には、危機感が、少ない。
失うことなど、許そうはずもないが、その「大切な者」を持っていた時間が短いからこそ、それが無くなる辛さが、分からない。
今の方が楽しいのは確かだが、なくなれば、それで昔に戻るだけなのだ。
だが、田辺は違う。もう、それを手放せないほどに、ずっと「大切な者」を持って来て、とうとう、それを越す、「本当に大切な人」を見つけてしまったのだから。
田辺が、精一杯の勇気を持って言った言葉に。
「ちっ」
あろうことか、健介は、舌打ちで返した。それも、本当に嫌そうにだ。
もともと、健介はガラの悪い人間だ。相手を思いやる気持ちなど、持ち合わせている訳がない。
その舌打ちは、聞こえていたはずなのに、田辺は、それでも、言葉を続ける。
「私は……健介の、こと」
どさっ、と気付いたときには、田辺は、健介の代わりにベットの上に倒れていた。
その上に、のしかかるようにして、健介は、これ以上ないぐらいに、不機嫌な顔で、田辺を睨み付けていた。
「まじでうぜえんだよ。てめえ、いい加減にしねえと、ここで犯すぞ?」
田辺の必死さなど、健介には伝わらない。
相手の傷みなど、分かる訳がない。だから、健介はマスカレイドで、違法なケンカの世界に身を置こうなどと思うのだ。
空手部は、確かに心地よい場所だったが、それが健介のゲスな人間性を治すものには、ならない。
所詮、健介は、悪人なのだ。
……などと、今までの健介の行動を見て、思う人間がいるだろうか?
その身を顧みずに、空手部の人間を、いや、田辺を逃がし、こんなにボロボロになるまでして、アリゲーターを倒そうとしたのだ。
だから、田辺は、騙されない。
それが、健介なりの、優しさなのだと。
そっと、田辺は健介のほほに手を伸ばす。そして、小さく笑った。
「健介……顔、真っ青」
続く