「……ちっ」
健介は、もう一度舌打ちをしたが、それには、先ほどまでの力はなかった。
「よっと」
田辺も、健介の限界を感じたのだろう、あっさりと、反対に健介と身体を入れ替えて、健介をベットに押しつける。
マスカレイドで十数位まで登り、完全ではないとは言え、武器も持たずに、九位のアリゲーターを追いつめたのだ。田辺程度に、あっさりと上を取られるような実力ではない。
しかし、悪ぶるには、健介の体力は、すでに限界を超えていた。
「ほんと、あんまり無茶すると、長引くよ? まあ、あんたはバカだから仕方ないんだろうけどさ」
「俺に無茶させたのは、お前だろうが」
田辺に、それ以上言わせない為に、健介は、すでに限界の近い身体を使ったのだ。確かに、田辺の所為だ、とも言える。
もちろん、田辺は、それに納得などしない。健介が、すでにほとんど動けないことを見越して、じと目で睨み付ける。
「何よ、人の告白をつぶすのが男のやること?」
「……」
男のプライドなど、クソ食らえ、と健介は思っているが、確かに、健介の行動がほめられたものではないことぐらい、健介にだって自覚はあった。
「……ったくよう、別に、男なんて俺以外にもいくらでもいるじゃねえか。空手部には……ああ、まあ男についてはあんまり良かねえが、クラスにだって他の男はいるだろ」
いかな健介も、さすがに御木本を選べ、とは言えないが、田辺が、クラスの男子にもそれなりに人気があるのを知っている。あけすけな性格は、打てば響くような高校一年の男子には、まぶしく映るものだ。
「あら、私、何か言った?」
「うぎっ……このアマ……」
田辺の言葉を、最後で遮ったのは健介だ。だから、田辺は口ではっきり言った訳ではない。健介の勘違いの可能性だって……まあ、さすがにないだろうが。
「私が、健介のことを好きになるのが、何かまずいの?」
勘違いではないことを、田辺はすぐに証明したのだし。
「そりゃ……良くねえだろ。俺は、ろくなヤツじゃねえぞ?」
「知ってる」
「うぐっ……」
返す言葉もなかった。自分で言ったのだ。否定しようもない。力づくでも、今の健介には、それをするだけの体力が残っていないし……何より。
「でも、あんたが力で女を黙らせるようなやつじゃないのは、知ってる」
田辺に、健介は一度も手をあげたことがない。
健介が、言葉での挑発以外で女に手を出すのは、相手が敵である場合だけだ。口は悪いから誤解されるが、暴力でどうこうなる相手を、健介は選んでいる。
「……たまたまだ。いつもてめえを殴り倒したいと思ってたよ。坂下の目があるから、手を出せなかっただけだ」
しかし、それを認める訳には、いかない。
「でも、手を出さないんでしょ? というか、ろくなヤツじゃないのなら、自分のことろくでもないとか言わないと思うけど」
「言うさ、それが免罪符になることも多い」
そういう男を、健介は何度も見て来た。ゲスの多い世界だ。そういうとき、健介は話し合いなど、必要としなかった。
借りたのは、やはり暴力の力。その時点で、もう健介は歪んでいるのだ。
そして、健介が、何より自分が歪んでいると感じるのは。自分とは、付き合わない方がいい、と思う、最大の理由は。
「俺に姉貴がいるのは、話したよな」
「え? うん、さっき聞いたけど」
「俺の親はさ、仕事が趣味のような人間なんだけどさ。それでも、俺が三歳ぐらいまでは、えらく子煩悩だったらしいんだよな」
そのころの記憶など、まったくないので、本当なのかどうかは分からない。
「でもまあ、飽きたのか、俺が物心ついたときは、もうほとんど家には帰って来なくなってたよ」
自分の境遇、それを話すのが、これほど恥ずかしいことだとは思わなかったが、しかし、今の田辺を説得するには、必要なことだ、と健介は、つとめて平静を装う。
「ま、それで俺がどうこうなった、てのはねえ。俺の性格が歪んでいるのは、親の影響じゃあねえ。正直、親にはあんまり思うところがねえんだ」
反発もなし、親愛もなし。
それはそれで、一種異常なのかもしれないが、健介は、それを気にしていない。
「問題は、姉貴の方だ。姉貴は5歳のころまでは、子煩悩の親に育てられた所為かな、愛情ってのを過度に欲しがるタイプでな」
同じ兄弟とは言え、先に生まれた方と後に生まれた方では、境遇も違う。境遇が同じでも、一緒になるとは限らないのだ。
そういう意味では、健介の姉は、健介よりも異常だった。
「ひとしきり親の興味がひけないか試してみた後、それが無理だと分かると、次は俺のことを標的として来てな」
健介は、どこか自虐の笑みを浮かべてそう言いながら、続ける。
「愛情をもらえなかった反動か、姉貴は、俺に異常なほど愛情を注ぐようになってな。いや、あれは執着と言った方がいいんだろうな。生活の全部、姉に見張られたよ。今思い出しても、正直、げんなりするな」
まあ、何とか暴行みたいなもんは、逃れることが出来たんだけどな。
そう笑いながら言う健介だが、正直、笑えない。
男と女とは言え、子供のころの一歳の差は大きい。
それが、性的なものであれ肉体的なものであれ、虐待につながる可能性は、決して低くなかった。健介も、後少し遅ければ、という自覚もある。
「中学二年ぐらいだったか、いい加減、我慢の限界、というか身の危険を感じて、段々と家に近付かなくなって、不良のいっちょできあがりって訳だ」
「……それは、不幸自慢?」
「どうとらえてもらってもかまわねえよ。まあ、そういうことがあるからな」
だからな、と健介は続ける。
「俺は、駄目なんだよ。人の情ってのが、どうも苦手なんだ。だから、空手部の中でも、一線引いてたつもりなんだけどな」
負けた相手の舎弟になる、聞いたらギャグ漫画のような行動を取ったのも、健介の苦し紛れの策だった。
葵のような、真っ直ぐな強さに、普通の少年のように憧れたが、それをちゃんと正面から口に出すことは出来ない。自分の情であれ、それがプラスのものであれば、気持ち悪くなるのだ。
だが、舎弟ならば、情は薄い。だから、はたから見れば、バカな行いとしか取れない態度で、葵の舎弟になった。
姐御、と呼んだのも、自分に対する皮肉のようなものだ。自分を狂わせた、そして、最後まで付き合ってやらなかった、姉と自分に対する。
「何の因果か、坂下に倒されちまって、そっからは、階段を駆け上るような気分だったぜ」
階段を、転げ落ちるような気持ちでは、なかったのだ。
望んでいる訳ではないのに、息が切れて、歩みを止めたいのに、前に、はっきり自分の意志で進んでいる、矛盾した気持ち。
「ああ、確かに、俺は坂下が好きなんだろう。でもな、やっぱりどっか歪んでるんだよ」
田辺が失恋した瞬間、それを、健介はあっさりと流した。
「あいつの、見放したようにすら見える、俺を信頼しているような態度が、俺には心地良いんだ。な、歪んでるだろ?」
マゾの気はねえつもりなんだけどな、と健介は、せせら笑う。
親は、自分をゆがめなかった。しかし、姉は、はっきり、自分をゆがめた。
それにうらみの一つでも言ってやりたい気持ちは、正直、ない。
健介は、良くも悪くも、自分の責任、というものを分かっている。正直、分かりすぎている。自分で責任を取らないと気が済まない、そういう歪みが、確かにある。
「だから、こんな変態やめとけ。お前は表面的にはサドだけどな、実際のところ、真性のマゾだぜ。わざわざ、俺に付き合ってたんだからよ」
ほれ、タクシーで帰りな、と健介は、財布ごと田辺に投げて渡す。
田辺は、それをとっさに手で受け取る。
と見せかけて。
バシッ
「ぐおっ!!」
投げてよこした財布を、田辺は綺麗に健介の顔に向かって、平手で打ち返した。バレー部の顧問がいれば、その場でスカウトしそうな容赦の無さだ。
「て、てめえ、俺はマゾじゃねえんだよ!!」
「じゃあ、自分が不幸だとか言ってヒロイン気取りでもするつもり? この少女趣味!!」
「ち、てめえ、それはいくら何でもひでえだろ! 前々から思ってたが、お前、俺をなめてるだろう。いいだろ、ここで決着つけてやるよ、どうせ壊れた身体だ、坂下に折檻されるのも一興だ!!」
「坂下先輩に手なんか出させないわよ!!」
「ああ、てことは、今の俺の状況ならお前でも殺れるってことか? いいだろ、相手になってやるよ。俺をなめるなよ、悪役なんて名前、ちと格好つけすぎか、とか思ってたところで痛いところ突きやがって!」
「何よ、図星じゃないの! そんなもの中二で卒業しときなさいよ!!」
「意味わかんねえよ!」
「分からないのは私の方!!」
「いーや、俺だ!」
……末期症状の患者が痛みに叫んでも、音が聞こえないように作られた特別製の部屋に入れれたのは、この状況を予測してなのか、それとも、もっと下品な想像のもとなのか。
少なくとも、今の健介の状況で、エッチなことをすると、それこそ命に関わりそうなのだが、その点どう考えていたのだろうか?
「わかんないわよ、あんたの都合なんて!」
「分かれよ!!」
「分かるわけないでしょ!! 空手部で、あんたが楽しそうにしてたのを分かってないのは、あんたの方じゃない!!」
健介は、黙った。
「……分かってるに決まってるだろ」
健介は、歪んでいる、と自分では思っている。
それでも、ああ、確かに認めない訳にはいかないほど、空手部の生活は、健介にとって、楽しくて仕方なかった。自分のようなバカが、こんなに普通の、楽しい時間を過ごせるとは思っていなかったほどに。
ああ、よーくわかってんだよ。
「あんたが、私と楽しそうにしてたの、分かるなって、言うの?」
真剣な、田辺の瞳が、健介をまっすぐに貫く。
「……ちっ」
そんなの、言うまでもねえ。ああ、わかってる、気付かない方がどうかしてるよ。
田辺と一緒にいる時間は、楽しかった。坂下といるときのような、上から包まれるものではない、対等の好意。
劇的という意味では、葵や坂下に勝てるものではないが、そんなものではなくとも、結局、心が動かされるときは一緒なのだ。
引きずられていくのが、劇的ではない、というのならばだが。
心が折れた、という表現を使うのならば、心が折れたのは、健介の方だ。
勝った、というのならば、田辺の方が、勝った。
「私の、こと……」
負けた、と健介は、はっきりと認めた。勝てない、と思うことはあっても、負けた、などと、一度も思ったことなどないのに。
いつか、勝てると、いつだって信じていたのに。
「……ああ、俺、お前のこと、好きだよ」
だから、もし、二人がケンカ別れでも、自然消滅でも、悲しい別れでもいい。
何かのはずみで、離れたとしても、健介は、一生、その顔を忘れないだろう。
「……聞こえなかったんだけど」
そのときの、田辺の意地の悪そうな顔を。
一刻も、脳裏に焼き付いたそれを忘れるべく、健介は、田辺を抱きしめて。
傷みに、不覚にも、意識が飛んだ。
続く