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最強格闘王女伝説綾香

 

五章・実戦(329)

 

 これは、そう昔ではないが、坂下とチェーンソーが戦うことになるよりも、もっと前のお話。

 

「こんばんは、来栖川さん」

「こんばんは、ええと、初鹿先輩」

 ランという少女と一緒にいた、寺女の先輩、初鹿に声をかけられて、綾香は一瞬、誰かを思い悩まなくてはならなかった。

「まあ、名前、覚えていてくれたんですね」

 ころころと笑う姿は、いかにもお嬢様、という感じである。黙って立っていれば、綾香もかなりのものなのだが、いかんせん、行動と言動が、まったくお嬢様ではないのだから仕方ない。

「一度しかお顔を合わせていませんから、覚えてないかもと思っていたんですが」

「正直に言うと、すぐには出て来ませんでした」

 愛想笑いをしながら、綾香は口調を改めて言う。これでも、寺女の中は上下関係が厳しいのだ。綾香だって、無意味なことで事を荒立てたくない。

 綾香の、愛想のような冗談が面白かったのか、ふふふ、と初鹿は笑う。

 その平和そうな顔を見ていると、正直荒事に身を置くことの多い綾香としては、調子が狂う。まあ、悪い人間ではないのだろう、とだけは思った。

「でも、こんな遅い時間に、初鹿先輩は、何の用事で?」

 繁華街に近いので、明かりは多いが、反対に、がらの悪い人間も多い。初鹿のような、見た目からお嬢様みたいな人間には、あまり合わない場所だ。

「少し、これで用事がありましたから」

 初鹿は、手にしていたバイオリンケースを持ち上げる。

「それに、それを言うと、来栖川さんも、こんな遅くに、どうしたのですか? あら、そのスカートは……」

「あ、これですか? 少しひっかけられちゃって」

 チェーンソーの鎖に、少しばかりひっかけられた後だ。綺麗に破れている。

「そんな格好で、こんな時間に歩くのは、あまりいただけないのでは?」

 初鹿は、心配するように言う。

「少し、頭を冷やしたくて。正直、このまま家に帰っても、眠れそうになかったので」

「ええと、それは聞いてはまずかったのでしょうか? もしかして、浩之さんが関係していますか?」

 綾香は、その名前に、珍しく慌てた。

「何で、ここで浩之の名前が?」

「いえ、来栖川さんの接点を、浩之さんしか知らないので、それしか思いつかなかったんです。気にさわったら、ごめんなさい」

 綾香は、やはり愛想笑いを浮かべて、手を振る。

「いえ、気にしないでください、初鹿先輩。それに、浩之のことは、無理矢理でも関係付けない限りは、それこそ関係ないですから」

「そうですか。すみません」

 初鹿は、何に謝っているのか、謝罪すると、柔らかい笑顔を、綾香に向けた。

「ランちゃんなんかは、最近の悩みは、全部浩之さんのことなので、ついつい気になってしまったんです」

「……」

 愛想笑いの中で、一瞬、綾香の目が鋭くなるが、しかし、すぐに元に戻った。

 綾香の中では、正直、ランはそんなに怖い相手ではない。どころか、完全になめている。何故なら、本当に、敵にはならないからだ。

 そういう意味で言えば、まだ目の前にいる初鹿の方が、色々な意味で敵になる、と思っていた。

「あ、こんなことを話したら、ランちゃんに怒られますね。でも、最近、ランちゃん、凄く心配しているんですよ。浩之さんの身体のこと」

「まあ、それは分かります。浩之、最近はかなり無茶をして、身体を鍛えていますから」

 しかし、綾香としては、それは望むところだった。

 浩之が強くなることは、綾香にとって、楽しい話なのだ。自分の手から、多少離れてしまったことはあまり嬉しくないが、それでも、浩之の根幹には自分がいると分かっているし、好きな人間が強くなるのは、素直に嬉しい。

「自分で練習して、さらに来栖川さんも相手をしているのでしょう? 私から見ても、無茶をしているようにしか見えませんもの」

「……ええと、それは、私、批判されています?」

 聞き方が、少しいやらしかったか。しかし、綾香は止まらなかった。

 まだ二回目だが、それでも珍しいのでは、と思う初鹿の、少し責めるような口調に、綾香は、それこそ素直に、反応していた。

「そう受け取ってもらっても、かまいません。ランちゃんが痛めている心のことを考えれば、私が、強く言うべきなのでは、と思いますし」

 オーバーワークの弊害は、今更言うまでもない。鍛えれば鍛えるほど、人間が成長するなど、ありえないのだ。

 ダメージだけで成長出来るのなら、人間、そんなに苦労はない。

「浩之さん本人の意志は、多分厳しい方にあるのだと思います。見た目よりも、よほど真面目な方ですし。でも、本人の意志があろうとなかろうと、身体を痛めることに、違いはないでしょう? だから、浩之さんに近い方に、少しは浩之さんの身体を気遣うように、お願いできれば、と思っていました」

 初鹿は、珍しく、頭を下げた。

「お願いします、来栖川さん。浩之さんの身体のこと、もっと気を遣ってあげて下さい」

「……もちろん、断る理由はありません」

「本当ですか?」

 ぱっ、と初鹿の表情が明るくなる。

「ええ、ですから、私も聞かせて欲しいことがあるんですが」

「どうぞ、答えられる限り、答えますよ」

 実のところ、綾香は、さっき声をかけられた瞬間から、気付いていた。それこそ、名前を思い出すよりも先に。

「それが、マスカレイド以外で戦うな、と言った理由?」

 綾香の口調が、一瞬で砕けた。そこから出て来たのは。

 浩之のよく知る、エクストリームチャンプ、高校生にして、最強の格闘家とも名高い、来栖川、綾香。

 何のことを言われたのか、分からなかったのだろう、初鹿は、首をかしげた。

「何だ、ランって子も、なかなかのコマ、持ってるじゃない。こんな、楽しい手を持ってたなんて、なめていて、悪かったと思うわ、ほんと」

「いえ、ランちゃんは、今のところ、私の正体には気付いていませんよ」

 柔らかい笑顔のまま、あっさりと、初鹿はそれを認めた。

「自信はあったのですが、気付かれてしまいましたか」

「私以外なら、気付いてなかったかもね」

「やはり、これですか?」

 初鹿は、バイオリンケースを持ち上げる。

「まーね。せめて、それも置いてくれば良かったのに」

 綾香相手には、隠しきるのは、無理だった。綾香は気付いてしまった。何せ、そのバイオリンケースの中にある鎖をならさないように、それでも普通の速度で歩く、その洗練された動きが出来る人間に、一日に二度会え、という方が無理なのだ。

 もちろん、鎖を置いてくるリスクを比べれば、大したことはないリスクだが、しかし、初鹿は、何でもないように笑って、言った。

「さすがにこれなしで来栖川さんに会うのは、失礼かと」

「失礼、ね。なかなか言うわね」

 必要、と言わなかった。その言葉の意味を、綾香は飲み込んで、ますます楽しくなかった。

 綾香相手に、完全武装でなくとも、問題ない、と言っているのだ。

 実に、楽しめそうな相手だった。

「それで、私にくぎを刺して、一体、何がお望み?」

「そんなこと、決まっていますよ」

 柔らかい、そう、綾香にも出来ない、幾星霜にも積み重なった、深い深い、奥底の見えない、笑み。

 一体、何年狂気を重ねれば、そこにたどり着くのだろう、そう思うような、笑い。

「私の楽しみが、傷付けられるのは、何よりも悲しいことでしょう?」

 怖さをまったく感じない、その得体の知れ無さが、余計に、その笑みが綾香にとっては怖い、と思えた。

 

続く

 

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