試合場のざわつきは、まったく治まる様子がなかった。
それも当然のことだろう。まさか、マスカレイドの一位が、マスクで顔を隠さな外の人間と戦うことになるとは、誰も思っていなかったのだから。
ここに来ているのは、かなり格闘技に傾倒した人間が多い。それでなくとも、自分の応援するチームの応援となれば、人間かなり興奮するというのにだ。
しかし、ここまでマスカレイドで結果を出して来た坂下にも、かなりの数のファンが付き出している。
外見は綾香ほどではないが、しかし、坂下にはえも言われぬ「説得力」というものがある。
その拳が作り出すパンチと結果は、マスカレイドの観客達を熱狂させるには、十分な説得力を持っていた。
今まで、一度も負けたことのないマスカレイド一位、チェーンソーと、同じくマスカレイドを破竹の勢いで打破して来た坂下、盛り上がらない訳がない。
どういう戦いになるか、結果はどうか、むしろ両方とも、生きて試合を終われるのか、そんな話をしだせば、誰もが止まらないのだ。
浩之だって、話したくない訳ではないのだが、何せ、横にいるのは綾香で、変な話だが、そういう話が盛り上がるとは、さっぱり思えなかった。
しかし、ざわつきが無くならなくとも、時間は過ぎ、試合場に、一人の男が現れた。
試合場は、非常にシンプルなもの。下はコンクリート、まわりを太い鉄のポールと金網で囲まれた、マスカレイドでは標準とも言える試合場だった。
珍しく、何の小細工もない。今まで、マスカレイドに有利になるように、と試合場を選んでいた赤目の行いとは、思えなかった。
そして、改心した訳でもないだろうに、赤目は、いつもの赤いサングラスをかけて、試合場に現れたのだ。
これには、事情が分かる人間は、すべからく驚く。
何せ、赤目、マスカレッドは、ついこの間、綾香に、文字通り首の骨を折られそうになったのだ。普通なら、まだ絶対安静の時期である。
しかし、何をとち狂ったのか、赤目は、首をコルセットで固めてはいたものの、いつも通り、というか、ここにいるのがさも当然のように、そこに立っていた。
「えー、まずは業務連絡を」
ふくれあがって、今にもはち切れそうな観客の気をそらすように、いつもよりも力を抜いた赤目の声が、ざわつく中を突き抜けて聞こえてきた。
「このコルセットですが、少し凶悪な肉食獣に襲われまして、命からがら逃げ帰った結果の、名誉の負傷です。いえ、実に凶暴な獣でした」
失笑と爆笑の中間の笑いが、観客の中から沸き上がる。
綾香は、多少憮然としながらも、まあ、聞き流してやる。
「なあ、みんな赤目がマスカレッドだって知ってるんだろ?」
浩之が、言ってはいけないのかと恐々としながら、ランに聞く。
「もちろん。でも、それを赤目の方から明かすことはないですし、観客達も、それを知っているからと言って突っ込むのは、お約束として駄目でしょう」
お約束かよ、と浩之は半眼になるが、観客達は、それはそれで楽しんでいるようだった。
まあ、綾香が凶悪な肉食獣とか表現するのは……
「浩之、突っ込む必要もないと思うけど、どう?」
「……さあ、俺には何のことだか」
それはもう赤目とマスカレッド以上のお約束で釘を刺されてしまった。下手につっつくと、釘どころか首を抜かれそうなので、浩之は違うことを話題にすることにした。
「でも、平気で出て来ているってところ見ると、あのコルセットはブラフか?」
「そんな訳ないじゃない。私が、ちゃんと首の骨にひび入れたんだから」
不幸にもその話を聞いてしまった少し離れたところにいた観客が、ひっ、と短い悲鳴をあげて、さらに距離を取った。
まあ、首の骨にひびを入れたことを、こうもあっさりと口にするのを見れば、それは恐れようと言うものだ。これがブラフではないのだから、余計に困る。
実に淡々と、殺人未遂を告白した綾香は、肩をすくめる。
「平気どころか、ああやって声を張り上げるなんて最悪。骨に響いて、多分地獄の痛みなんじゃないの?」
「……のわりには、平気そうに見えるが」
「我慢してるんでしょ。ま、腐っても、自分のところの一位の試合だもん。ベットでおとなしくしてるなんて我慢、出来なかったんじゃないの?」
綾香の意見は、確かに的を射ていた。ただ、その為には、首の骨のひびという、直接命にかかわりそうな痛みを我慢しなければならないのは、さて、割に合っているのか。
下手をすれば、下半身不随や死が待つだろうに、まったく赤目は、いつもと変わらない。むしろ、前よりも生き生きしているようにすら見えた。
色々と、まわりから見れば卑怯なところもあるのだろうが、しかし、赤目もまた、このマスカレイドに、全てをかけているのだ。
「代わりと言っては何ですが……今日は、もう一人の、凶悪過ぎる肉食獣を、退治してもらいに来ました!!」
おおおおおおおぉぉぉぉぉぉぉっ!!!!
何のことか分かった観客達が、その一言で、一気にヒートアップする。
「初めて、その獣がマスカレイドに現れたとき、誰がこうなることを想像したでしょうか?!」
来栖川綾香とは違い、坂下には、知名度などまったくなかった。初めての試合のときも、誰だ、と思った人間も多い。
「しかし、それも昔の話。その獣は、アリゲーターを倒し、まさか勝てる訳がない、と思ったカリュウを倒し、とうとう、ここまで突き抜けて来たのです!!!」
おおぉぉぉぉぉぉっ!!!!
観客の反応も良いが、本当に話を聞いているのかどうか、疑わしかった。勢いにつられている様子すらある。
「しかし!!!!」
赤目は、自分の身体のことなど少しも考えないように、声を張り上げる。
「今、ここにいる誰が、その獣の実力を疑うでしょうか?!」
それは、無理だろう。疑いたくとも、観客達の頭にも、その拳は、こびりついている。
「私怨に走ったアリゲーターを一閃。あの同じく凶悪と言われたアリゲーターが、今はまるで虎に襲われたかのように、身体も心も完全に折れてしまいました!!」
つい数日前の話だ。アリゲーターが、坂下に完全に壊されたのは。
「そう、彼女を、凶悪、と表現するのは問題でしょう!! マスカレイドの鉄の掟に背いたアリゲーターを制裁したのは、まさに彼女なのですから!!!!」
まあ、坂下としては、ふりかかる火の粉を、元から断っただけなのだが、まわりから見れば、マスカレイドの為、とも取れなくもない。
ともかく、獣、という扱いから、彼女、という扱いに変わった。まあ、坂下にとってはどうでもいい話だろうが。
「力があれど、制御された力!! まさに、それは凶悪をさらに越える、人知の及ぶからこそ、危険極まりない牙!!」
ドンッ!!!!
太鼓が、一度、大きく打ち鳴らされた。
「牙の拳を持つ、誇りと理性を持つ虎!! 挑戦者、空手家、坂下、好恵〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!!!」
どぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!!!!!!
踏みならされる音と、雄叫びにも似た歓声の中で、その危険さを、少しでもやわらげるように、無骨な鉄の檻の花道に、彼女は、現れた。
その身を空手着に包んだ、色気の少ない顔に、艶めかしささえ感じる微笑をたたえて。
続く