道着を投げつけられる、という攻撃は、チェーンソーにとっては対処の難しいものだ。
しかし、難しいからこそ、対処して来る、と綾香は何の保証もないが確信していた。いや、保証はある。あの、二人の強さが、何よりの保証、否、証明だ。
今の、ただ回転させて、というにはいささか高度な技なのだが、いるだけの鎖の動きを、投げられた瞬間に変えることぐらい、チェーンソーならしてくる。
道着を脱ぐのには、時間がかかるし、投げられたとしても、スピードなど望むべくもない。スピードで対処できない、ということはないだろう。
鎖を回転させて、相手を待つ、というスタイルは、確かにそれで崩れてしまうだろうが、しかし、坂下に唯一残されている道具を終わらせることを考えれば、悪くない。
反対に、坂下としては、試す価値のある方法だ。このジリ貧になっていく状況は、何を置いても打破しておかなければならないのだから。
ただ、チェーンソーが、好恵が道着を脱ぐ時間を、与えてくれるかどうか……ま、それでチェーンソーの対処も分かるんだけど。
チェーンソーが、もし坂下が道着を脱ぐのを邪魔すれば、つまりこのまま押し切ろう、と考えているということだし、もし、脱ぐのを邪魔しなければ、その後の対処で、何かやってくる、ということだ。
実際のところ、投げられた道着を後ろに避けて、もう一度同じ状況に持っていく、という手があるのだが、それは、さすがに坂下が許さないだろうと当たりをつけていた。
下手な動きは、チェーンソーの方にも隙が生まれる。ただ鎖を回転させているように見えても、あれは高等技術のオンパレードで、どんな体勢でもあれを出せる、というものではないのだと綾香は分析していた。
それより何より、一度破られれば、もう坂下相手には効かないと、論理的な意見ではなく、感覚的に感じるのだ。
さて、でも、好恵はどうするのかしら? まさか、気付いてない、ってことはないと思うんだけど。
綾香の読みでは、坂下ならば、チェーンソーの、道着を投げたときの対処まで頭が回っているはずなのだが。
坂下は、今のところ、道着を脱ごうとする様子がない。
まさか、気付いていてもしない、という訳じゃないと思うけど。
空手家にとって、道着を脱ぐ、というのが、屈辱だと感じる人間もいる。そういうものには、坂下は当てはまらないはずなので、脱ぐのに躊躇するとは考えられないのだが。
そして、綾香の読みは、当たった。
坂下は、一度大きく距離を取ると、その黒帯に、手をかけた。坂下が、今まで思いつかなかったとすれば、それは遅過ぎるぐらいだ。
それに対してチェーンソーは、待ちに入っていた。距離を詰めれば、道着を脱ぎかけという、狙うのならばここしかないという状況で、距離を詰めない。
そんなに速く近づける訳ではないので、その間に坂下は体勢を整えてくるだろうが、脱ぐ邪魔ぐらいは出来ただろう。
つまり、チェーンソーは、坂下の動きを待っているのだ。
坂下の、虎の子の道着を投げる、という作戦を、あえて行わせて、それで裏を取ろう、と考えているのだろう。
「……ああ、なるほど」
遅ればせながら、浩之も、坂下が道着を脱ぐ理由に思い至ったようだった。それまでは、状況にだけ目が行って、考え付かなかったのだろう。
……いや、それどころか、今まで、その方法を試した選手が、いない?
綾香は、マスカレイドの昔の試合を見せてもらったことがないので、今まで、布を使う、という発想をした選手がいたのかどうかは分からない。
しかし、観客達も、徐々に気付いているところを見ると、今まで、それをやってきた選手が、いなかった可能性が高い。
誰でも考えられる、普通の手だと思うんだけどなあ。
綾香の考えは、正しい。それを考えつくのは、そう難しいことではない。
しかし、実行した者がいないのも、事実。
チェーンソーが、まだ無名だったころは、鎖に対しての対処など考えられなかったし。
チェーンソーが有名になってからは、その威力の前には、布の一枚など無意味、と思われていたのだ。
威力が怖いのなら、その威力を出させない状況に持っていけばいい。綾香なら、瞬時にそう思うところだが、一般人だけでなく、選手にだって、それを求めるのは、酷というものだろう。
まあ、綾香の考えは、威力を出せない状況に持っていく、ではなく、当たらなければいい、というものなのだが。それもたいがいである。
もう、坂下が何をしようとするのか、観客達にも、完全に予測出来ていた。
そして、多くの観客達は、そんなもので、チェーンソーの鎖を止められる訳がない、と考えて、さらにその中の少数は、それでも邪魔は出来るかも、と考える。
そして、観客に混じって見ている、それなりの選手達は、この後に起こるであろう、高度な攻防を予測する。細部までは、さっぱり想像出来ないでいるが。
見る者が見れば、この状況を作り出したのが、チェーンソーの方であることは一目瞭然。
チェーンソーには、それに対する備えがあるということだ。
いや、備え、というほどのものでなくとも、その状況を、利用するつもりで、最初からいたことは想像に難くない。
道着を地面に落とし、坂下は、手早く黒帯を再び巻く。その黒帯も、鎖に対してはかなり効果の高い道具であるのだろうが、今回は、それを残すつもりなのか。
何を悠長に、チェーンソーは待っているんだ、と何も分からない観客は考え、分かっている人間は、固唾を呑んで、二人の動きを見守る。
地面に落ちた道着を、坂下が手に取る。しゃがんだ状態など、チェーンソーからすれば生唾物の状態だろうに、それには手を出さない。
それは、正解だ。動けば、チェーンソーにだって余裕がなくなる。それこそ、本当に道着で鎖を止められかねない。
最低、坂下に先に手を出させなければ、チェーンソーにはこの攻防に勝ち目がない。
道着を片手にした坂下に、観客達も歓声を止めて、視線を集中させる。
おそらく、この次の攻防が、勝敗を決するものになる、と誰しもが思ったのだろう。いや、だからこそ、チェーンソーは待ったのだ、と観客達も、感覚で納得しだしていた。
大きな動きでもない限り、この二人に決着などあり得ない、という、それは見ている者達の願望の生み出した納得でも、状況は、その通りなのだ。
すっ、と坂下は、道着を持った手を後ろに引く。
ここから、一気に畳みかける、いや、それとも、フェイントを入れて? もしかすると、そのまま近付いて行くかもしれない。
ヒュヒュヒュヒュヒュ、と、チェーンソーの回転する鎖の音だけが、試合場に響く。
ごくり、と誰かの飲み込んだつばの音が、聞こえたようにすら思えるほどの、今までとはキャップのありすぎる、激しい沈黙の後。
坂下が、動いた。動いた、と観客達にも分かるほどに。
つまり、そこに、目で追えないようなスピードは、ない。ならば、チェーンソーにかかれば、対処できる。最低、二人の高度な攻防になるはず。
坂下の手から、道着が放たれた。
はずだった。
それを、観客達は、先ほどの沈黙とは、まったく別種の沈黙で、ぽかんとして、見守る。
緊張の切れた試合場。
「……あはっ」
その中で、一番最初に聞こえて来た声は、綾香の、背筋も凍るような、楽しそうな笑い声だった。
続く