坂下の手から放たれた道着は、高々と舞い上がった。
そう、高々、とだ。
本当なら、チェーンソーに向けて投げなければならないはずの道着が、しかし、まったくあらぬ方向へ、飛んだのだ。
不可解を越えて、有害でさえある坂下の行為に、見ている者、皆あぜんとしていた。
まさか、投げるのに失敗した?
見ている者は、まずそう思った。風の抵抗を直接受ける服のようなものを投げても、大して遠くへは投げられないのは確かだし、それもあながちあり得ないことではない。
しかし、それを完璧に否定するように、坂下に動揺はなかった。投げるのを失敗して取り繕おうとしているのではない。もとより、そちらに投げるつもりだったのだ。
道着は、そのまま緩やかに飛んで、高い金網の上を抜け、綾香達のいる方向に落ちる。
浩之は、とっさにそれを受け止めた。軽く、大きさもある道着を、地面に落ちる前に受け止めるなど、いくら驚いていても、浩之には余裕だ。
ただ、とっさであり、浩之も、その驚きから、まだ元に戻れなかった。
気付かなかった訳がない。道着を投げつけるのが、この場合、一番有効な方法だと、その程度のことを考えられないほど、坂下は低能ではない。
しかし、あろうことか。
「持っておきな。これ以上、破られるのはかなわないからね」
浩之達の方を振り向いた坂下は、静かになったのをこれ幸い、と道着を受け止めた浩之に言う。その坂下の声には、まだまだ余裕があった。
そして何故か、振り向くことで出来た隙に、チェーンソーは割り込んで来ない。
もう、これで自分が負けることはない、と考えているのか。
それとも、チェーンソーも混乱しているのか。
道着を投げつける。それ自体はいい手だが、しかし、だからこそ、相手に読まれる。
大きな隙ではないだろう。投げた後は、坂下はフリーなのだ。道着をはじくにしても切り裂くにしても、時間は取られる。
しかし、隙がなくとも、相手がどう来るのか分かっていれば、それは、罠を仕掛けるには十分な条件。
実際、浩之は、何度かそういう手を使って、策を練って来た。失敗すればそれで終わりだが、今のところ、大きな失敗はなく、それの有用性は、肌で感じている。
チェーンソーも、考えてみれば、それを狙っていたのだろう。来る、と分かっている攻撃は、裏をかくことが出来る。それを使って、多少自分が不利でも、勝負をかける。
だが、それが、坂下の、予測できない行動で、崩れた。
ゆっくりと振り向くと、坂下は、態度と同じように、緩やかに構える。ここから飛び込んで、チェーンソーに攻撃できるような構えではない。
しかし、それは、明らかに「攻撃」だった。
坂下は、ゆっくりと息を吸いながら、胸の前で、腕を十字させる。
そして、腕を脇に引きながら、息を吐き出す。
「カァァァァァァァァァァァァァァァァァァァッ」
大きな声ではなかった。しかし、その息には、裂帛の気合いが乗っていた。
息吹、寺町などで、すでにおなじみの光景なのだが。
この息吹を見るだけでも、どちらが強いのか、一目瞭然。それほどの重さが、その息吹にはあった。
その息には、チェーンソーの身体をはじき飛ばすような力はなかった。しかし、それでも、チェーンソーを少しなりともはねのけるだけの、「力」があった。
まるで、自分の力を外に吐き出すような息吹一つで、あっけに取られていた観客達を含めて、ここにいる誰もを、押し潰す。
平気そうな顔をしている者は、いない。綾香ですら、うきうきして、今にも試合場に飛び出しかねないのだ。
息吹を終えた坂下は、今度こそ、左半身の構えを取り、チェーンソーに、名乗った。
「坂下好恵、まいる」
坂下がとどまっていたのは、そこまでだった。
ゴウッ!!
地面がはじけるのでは、と思う勢いで、坂下の身体が、駆ける。決して脚は大きくあがっていないのに、まるで地面を滑るように駆けるそれは、すでに人間のカテゴライズに入れて良いのかどうか迷う生物だった。
まさか、有利な手を捨てて来る、と思っていなかったチェーンソーは、確かに、その一手、意表を突かれた。
同時に、その息吹に、気押されていた。勝負は、実力以外でも、その気迫でも変わる。そういう意味では、坂下の気迫は、まさに必殺だ。
さらに、まさか真正面から突っ込んでくるなど、当たり前で思わない。チェーンソーの鎖は、止まってなどいない。これを止めない限り、坂下の攻撃は、届かない。
しかし、まるでどうにかする手があるとでも言わんばかりに、何の躊躇もなく飛び込んでくる坂下に、チェーンソーは押される。
チェーンソーの鎖をやり過ごそうとしているようにすら見えない、いや、そもそも、チェーンソーのこれは、やり過ごしたぐらいでどうこうなるような技では、ない。そのカバーすら出来ているのだ。
しかし、あちらから来られるのは、実は不利だった。チェーンソーの鎖の回転は、維持するのには、非常に神経を使う。距離を自分で決められないのは、あまり有利な状況ではない。
そして、それら全てを、深く考える時間を与えないほどに、何のためらいもない坂下の突進。
手を届かせずに、坂下は、チェーンソーのものを、削れるだけ削っている、と言って良かった。これを、本当に全部策として行っているとすれば、もう、それはあの天然格闘バカの試合運びすら、足下にも及ばない。
それは、すでに怪物の、世界。
それでも、なお。
坂下は、意識的にしろ無意識にしろ、たまたまにしろ、よくやった。これ以上、心理戦や状況で、素手の坂下が追い込む方法はなかっただろう。
しかし、それだけ削ってなお。
チェーンソーの、何もされないときの力を10とすれば、削られたチェーンソーの力は、9.5、どんなに坂下に対して甘く見積もっても、9を下回ることはない。
例え、どんな状況にすら、簡単に振られるほど、チェーンソーは甘くない。その鎖と同じように、自分の精神すらそれ自身生き物のように見えるほどに、完璧に扱う。
無謀な賭け、坂下の賭ける姿からは、それしか出せないほどに、チェーンソーは揺るがない。
真っ正面から来る坂下に対して、それが終わりの合図と言わんばかりに、チェーンソーは鎖の回転を止めずに、真っ正面から、受けて立った。
だから、はっきり言えるのだ。
それは、チェーンソーが弱かった訳でもないし、坂下の運や、または策力がチェーンソーを弱くした訳ではないのだ。
射程に入った坂下を、高速に回転された鎖が、捉える。とっさに出たのか、鎖を受け止めたウレタンナックルが、簡単に破れ飛ぶ。
坂下の地力が、チェーンソーの技を、上回っただけの、話。
続く