止まることを知らないかのように高速で回転される鎖の中に。
まず、入ったのは、坂下の左手だった。それは、坂下が左半身に構えている以上、当然のことだ。
そのまま、何の抵抗もなく、手首まで入り、さらに、肘まで十センチもあれた足りるというところまで、坂下の腕が、割り込む。
しかし、そこまでだった。どんなに坂下の突進と腕のスピードが速かろうが、チェーンソーの鎖の回転は、それを凌駕している。
高速で上から叩き落とされた鎖が、坂下のその腕に当たり、簡単にウレタンナックルを引き裂く。それは、綾香の予想よりも、威力の高いものだった。
当然だ、坂下が飛び込んでくるのは見えているのだし、チェーンソーがその為に、鎖の動きを変更させない意味がない。
どうせ、相手に当たれば回転は止まるのだ。滑らかな回転を維持する必要性はない。だったら、飛び込んでくる相手を、確実に仕留められる方がいいに決まっている。
もちろん、ただ動きを変更しただけでは、また坂下に見切られる可能性も考えて、坂下が、その回転している鎖の領域まで入って来るのを待ってからの変更だ。
鎖の回転は、腕全体を振り回している訳ではないので、どうしても距離が縮む。その分スピードは上がるが、威力は落ちる。しかし、待つのならば、これ以上ないほどの安全圏を持って待つことが出来る分、有利だった。
そうやって、飛び込んでくる坂下に合わせて威力を込めた鎖は、あっさりとウレタンナックルを引きちぎった。全力、というほどの威力はないが、身体の末端を破壊するには、十分な威力だ。
パァンッ!!!!
しかし、あろうことか、その鎖が、はじかれ、あらぬ方向に飛ぶ。固定されているから、腕から離れることはないが、坂下の身体を、捉えることは出来なかった。
それとほぼ同時、いや、こちらの方が、一瞬速いか、追撃の為に放たれていたもう一方の鎖に、今度は坂下の右腕が当たっていた。
こちらは追撃用で、一撃目に力を入れていた分、一撃目よりも威力は落ちる。ウレタンナックルも、破れはしたものの、そう派手に破け飛ぶようなことはなかった。
しかし、そこには、意志が感じられた。左もそうだったのだろうが、鎖を受けたのは、手の甲ではなく、手の平だった。
それこそが、坂下の意志を、はっきりと示す証拠だった。
そして、その右腕を外にはじくように、坂下は動かしていた。観客達の目では、捉えることすら難しい、必殺の一撃と同じほどのスピードを有した腕が、鎖を、外にはじいていた。
パァンッ!!!!
二度目の、破裂音にも似た音。それで、坂下は、チェーンソーの鎖を、受け流した。
素手で。
そして、そこでは動きは止まらない。受けただけでは、この攻防は終わらない。
坂下の反撃が、待っていた。
だが、チェーンソーも、まさか受けられるとは思っていなかっただろうに、ほとんど間を置くことなく、動いていた。
坂下とチェーンソーの左脚が、ほぼ同時に動く。両腕の武器をはじかれたり、両腕を使って武器をはじいたりした後なのに、二人の身体の軸は、まったくぶれていないようにすら見える。
そこから吐き出される一撃は、武器でなくとも、目の前の全てを破壊する威力を持っていた。
ズパーーーーーーンッ!!!!
まるで、測ったかのようなタイミングで、お互いの前蹴りが、お互いの腹部に入っていた。
見た目、完全に相打ちの格好になったが、先に後ろにはじかれたのは、坂下の方だった。それに遅れるように、チェーンソーの身体が、コンクリートの地面を削るように、後ろに下がる。
それは、お互いの体重の差だったのだろうか? 確かに、背は坂下の方が多少上だが、チェーンソーは武器と防具を装備している。マスカレッドの防具と比べると、おもちゃにも等しい重さだとは言え、ウェイトアップの効果はあるだろう。
事が済んでから、浩之は、いつの間にか息を止めていたのに気付いて、はっ、と息を吐き出す。
……やった……のか?
無茶にもほどがある。あの、チェーンソーの攻撃を、見切るでもなく避けるでもなく、受けて見せたのだ。
今まで、実のところ、チェーンソーの鎖を受けた、という選手はいない。当然だ、鎖は一本の棒ではないのだ。受け難いことこの上ない。単純に武器で受けても、そこから折れ曲がって、その先はそのまま相手に当たる。
だが、坂下はそれをやってのけた。それも、あろうことか、素手で、だ。
だが、疑問の残る状況だった。
坂下が、チェーンソーの鎖の回転を止めるのを、まず第一にしていたのは、状況から見て、間違いないだろう。
それは、確かに達成されていた。風を切るように回されていたチェーンソーの鎖は、今はそのなりをひそめて、チェーンソー共々、動きを止めている。
だが、その代償は、大きい気がする。
ウレタンナックルは、無惨にも破れていた。特、左が酷い。まるで鋭い刃物で引き裂かれたかのように、完全に使い物にならなくなっている。右も、左ほどではないが、すでにウレタンナックルとしては使い物にならないだろう。
かつ、反撃の方法も、まずい。
坂下の反撃に、チェーンソーが割り込めたのは、さすがとしか言い様がない。それで、状況は一気に坂下に不利になる。
一方的にならともかく、腹部などという、一撃必殺に成り得ない部位を、痛み分け。坂下にとっては、最悪の状況だろう。
どんなに坂下の腹筋が、浩之が裸足で逃げるのは不可能と悟って命乞いをするほどに鍛えられていたとしても、鍛えていないはずのなチェーンソーは、さらに防具をつけている。
マスカレッドと比べれば、防具は遥かに薄いが、しかし、正直、坂下などはそこは疑っていた。あの薄手の防具が、特殊な装備でないと、誰が言えようか?
いや、あの黒光りする鎖を見る限り、即興で作ったものではない。確実な意志と、ちゃんとした技術がそこには感じられる。
あの防具は、見た目以上に、防御力を持っている。坂下なら、確かにそれを打ち抜くことも可能なのだろうが、しかし、相打ちは、受けるダメージは、坂下の方が遥かに多いのは間違いなかった。
いや、相打ち云々を言う前に、ウレタンナックルが破れ飛ぶほどの威力の鎖を、腕で受けた、そのダメージは?
むしろ、そちらの方が、深刻だ。坂下は、確かに蹴りもいいが、その真剣にも似た拳は、相手を圧倒するものを持つのだ。それが精彩を欠いたとき、勝ち目などあるのだろうか?
鎖の回転は止めた。しかし、総合的に見て、坂下がこの攻防で勝った、とはとても言えない状況だ。
だというのに、横で、にやにやそわそわしているこの女を、どうしたものだろうか?
坂下が不利、ああ、なるほど、理屈をこねれば、そうなる。こねる必要すらなく、普通に考えればそうなのだが。
だが、自分に見えていないものが、彼女には、見えているはずだ。
綾香が、横で嬉しそうにしていると、その不安は、軽く吹き飛ぶ。そのかわり、もっと直接的な不安がむくむくと頭をもたげてくるのは、どうにか出来ないものか。主に自分の身の危険とか。
そう、奇しくも浩之が自分で考えたように、浩之には、見えていないものがあった。
だから、浩之は思い違いをしていた。
それは、坂下がかかげた、優先順位。
鎖の回転を止める?
そんなもの、坂下の中では、優先順位の中にすら入っていなかった。
坂下が掲げたのは、ただ一つ。優先順位など、つける必要すらない。最初から、徹頭徹尾、それにしか坂下は意識を裂いていない。
ただ、鎖が邪魔だったから、はじいただけだ。
すなわち、坂下が思うのは、一つ。チェーンソーを、倒すことだけ。ただ、それだけなのだ。
続く