「ぐっ!!」
坂下の短いうめきの声があがり、今まで何とか避けていたチェーンソーの攻撃が、坂下を捉えていた。
チェーンソーの鎖を受けた脚が払われ、坂下の身体が、宙に浮く。
まずいっ!!
それを見ていた浩之は、とっさにそう考えていた。
どんなに超人的な技を持っていようと、身体が宙に浮いてしまえば、自分の力で動くことが出来ない。そこを狙い打ちにされたら、終わりだ。
が、それは浩之の杞憂だった。
迫り来る頭を狙ったもう片方の鎖は、坂下の髪をかすって、数本髪を持っていっただけで、その場を通り過ぎていた。
チェーンソーのもう片方の鎖の起動は、坂下が立っていたならば、丁度首あたりに入る軌道で振るわれていた。坂下は、とっさに脚を払われる格好を取って、それをかいくぐったのだ。
時間差を置く為に、一瞬だけチェーンソーの片方の鎖が到達するのが遅かったからこそ出来た回避方法だった。いや、いかなチェーンソーでも、腕のつく位置が違う以上、両腕同時、というのは無理だ。片方を遅くすれば合わせることは出来るが、スピードが命のときに、タイミングを遅らせる意味はない。
それに、鎖は勢いを殺しては意味がないので、軌道が変えにくいのも、坂下に味方した。坂下が、まさか脚を払われてその場で回転するとは、チェーンソーも予測できなかったのだろう。
何故なら、それをやられたところで、何ら困ることはないからだ。
チェーンソーの回転は左回転。身体の構造場、左の腕を後ろにそのまま回す、というのは不可能だが、後から放った右の方は、チェーンソー独自の連続技、首に腕を巻き付けるようにして打ち込む二撃目が、ある。
宙に浮いているのならば、それで狙い打ちだ。そして、そんな愚策を、坂下が取って来るとは思っていなかったのだ。
よしんば、そんな回避方法を取ったとしたら、そこを狙い打つだけなのだから。
首に腕を回すのだから、体勢が低い相手には決まらない、と思っているのは、普通の観客のレベルの話だ。
チェーンソーが少し身体をかがめれば、それで事は足りるのだ。
もちろん、チェーンソーはそれを狙って、首に腕を絡めながら、前傾姿勢に移行する。
ここに来て、浩之の杞憂は、まったく嬉しくはないだろうが、やっと現実のものとなった。
しかし、ただ宙にあるからと言って、そのままやられるほど、坂下はおとなしくなど、なかった。
坂下は、宙にありながらも、低い体勢であったので、片手が地面についた。
がりっ、とコンクリートの地面に、坂下の指が食い込む。もちろん、さすがに坂下の力でも、本当に食い込む訳ではないのだが、しかし、見ている者には、皆そう見えた。
「けやぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!!!」
坂下は、烈火のごとく雄叫びをあげながら、その片手を軸足にして、下からチェーンソーを蹴り上げた。
「っ!!!!」
見ている者が皆、咄嗟という言葉を思いつく勢いで、チェーンソーはその蹴りを腕でガードしていた。
ガードは間に合ったが、しかし、それで攻撃の手はゆるみ、同時にその勢いに押されて、大きく後ろにはじかれる。
追撃を入れようと、前傾姿勢になったのがまずかった。その分、チェーンソーの体勢は、坂下の、下からの蹴りに有利になったのだ。
下手をすれば、カウンターぎみに蹴りを受けることになった。そうなれば、防具があったとしても心許ない。
しかし、何より凄いのは、坂下だろう。片腕を軸足に、と何でもないように言っているが、脚と腕では、その筋力に大きな差がある。
ましてや、それで片腕、だ。軸足に出来る訳がないし、下手をすれば、その軸足に使った腕がどうにかなってしまうだろう。
綾香は、確かによくこの蹴りを使っている。使える者がいないからこそ、どうしても相手は対応が遅れるからだ。
いや、単純な威力だけで言えば、坂下の方が綾香よりも上か?
鋭さやスピードは、さすが綾香の方が上だが、単純に威力、という点においてみれば、何故か、坂下の方が上のようにすら見えた。
それに一瞬で浩之は気付いて、おまけに綾香に反応があったのに気付いて、浩之は生きた心地がしなかった。
坂下にしては珍しい、トリッキーな動き、だと言えるだろう。しかし、それでチェーンソーをはじき飛ばすだけの威力を出すのだから、流石である。
チェーンソーが後ろに大きくはじかれた、その隙をついて、坂下は素早く立ち上がるが、距離は、チェーンソーが取らせなかった。
鎖の届く範囲に、チェーンソーは後ろに大きくはじかれた次の瞬間には入っていた。まだ、坂下の体勢は万全ではない。
一度は首にまわそうとしていたチェーンソーの右腕も、まだ完全に攻撃態勢に入ってはいなかったが、左腕はすでに攻撃できる体勢に入っていた。
今度は、先ほどとは反対の、右回転の動きで、左の鎖が横一文字に放たれる。
上にも逃げられない、下にも逃げられない、胴体の丁度真ん中を狙った一撃だ。
だが、体勢が整わない、と言っても、地面に脚がついている。何より、このとき、坂下は反撃を狙う余裕がなかった。だから、後ろに逃げるのに、何の抵抗もなかったのだ。
倒せる算段があるのなら、いくらでも前に出るが、それがないのなら、わざわざ危険な場所に身を置く必要が、ある場合もあるが、今回はない、と坂下は判断したのだろう。
まさに、今度こそ綾香もかくや、と言う軽やかなステップで、チェーンソーから逃れようとして。
がくっ、と一瞬スピードが落ちた。
「っ!!」
今度は、見ている者が一瞬息を忘れた。軽やかに逃げる、と思われた坂下の動きが、急に不自然になったのだ。
しかし、それでも、腰を落として、後ろに大きくスウェイすることによって、坂下は鎖を避けるが、バランスを崩して、そのまま後ろに倒れる。
おおぉぉぉぉぉぉぉぉぉっ!!
と見せかけて、華麗に地面に手を付きながらバク転をして、後ろに飛び、チェーンソーから距離を取った。
本当に、坂下にしては珍しい、トリッキーな動きだった。そういうトリッキーな動きは、けっこう見慣れているはずの観客達も、思わず歓声を上げるほどに完成された動きだったが、坂下らしくないと言えば、坂下らしくない。
そもそも、その前の回避が不自然だった。いつもの坂下なら、あそこで後ろに避けることは、簡単ではないだろうが、出来ない動きではなかったはずだ。
浩之の見解は正しい。と言っても、その違和感は、見ている観客のほとんどが感じたものだ。だから、皆息を呑んだのだ。
それは、思い違いではなった。
浩之は、当たり前のことに気付いて、しかし、それに愕然とした。
坂下が、トリッキーな動きをしている理由。いや、しなければならなかった理由。
簡単だった。
坂下は、脚に、ダメージを受けたのだ。
続く